クルマは街の景色を変える|スズキ・ハスラーなどをデザインした服部守悦氏スペシャルインタビュー
服部守悦(はっとりもりよし) = 1959年11月29日生まれ、愛知県出身。武蔵野美術大学 造形学部 工芸工業デザイン学科卒業後の1983年、スズキ自動車株式会社入社。携わったプロジェクトは多岐にわたり、RJCカーオブザイヤー「ワゴンR」(2008年)、「スイフト」(2010年)、日本産業デザイン振興会グッドデザイン賞「カプチーノ」(1992年)、「エスクードV6」(1995年)、「Kei」(1999年)、「MRワゴン」(2001年、2011年)、「ツイン」(2003年)、「ワゴンR」(2008年、2012年)、「アルト」(2009年)、「ソリオ」(2011年)、「スイフト」(2011年)、「MRワゴン用タッチパネルオーディオ」(2011年)、日本産業デザイン振興会ロングライフデザイン賞「ジムニー」(2008年)、「ワゴンR」(2009年)、日本流行色協会オートカラーアウォードデザイナーズ賞「アルト」(2005年)、日本流行色協会オートカラーアウォード審査員特別賞「スイフト」(2011年)、インディアデザインマークグッドデザイン賞「ワゴンR(インド仕様)」(2012年)、「スイフト(インド仕様)」(2012年)、「デザイア」(2013年)、「エルティガ」(2013年)など受賞多数。2014年4月より静岡文化芸術大学デザイン学部にて教鞭をとり、自身の知見を次の世代に伝えている。
―クルマとの出会いについてお聞かせください。
幼稚園の頃にはすでにクルマに夢中だったので、覚えていないのが正直なところです。ミニカーをいっぱい集めており、それで遊ぶことが大好きでした。また年に一度出るような「世界の自動車」のような本も、かならず毎年買ってもらい、貪るように読んでいました。小学校に入る頃には世界中の車の名前が全て頭の中に入っていました。 当時からスケッチブックにクルマの落書きもよくしていました。
「栄光のラリー5000キロ」という本をご存知ですか?ニスモ初代社長難波靖治さんのサファリラリー参戦記をドキュメンタリーで児童書として出版した本です。「世界一過酷な自動車競技の優勝記録」というサブタイトルなのですが、苛酷さが伝わってくる描写に子どもながらに興奮を隠せませんでした。それ以来、ラリーカーの魅力にどっぷりハマってしまい、クルマの絵を描くときはいつもラリーカーでした。同じようなクルマばかり描いているように見えて、実は自分の中ではストーリーがありました。一枚目はラリーカーと水たまり、その次はそのラリーカーがちょっとぶつかっているところ、その次は山の中を走っている、という感じで、絵コンテのようなものです。
栄光のラリー5000キロより
その当時、叔母も一緒に暮らしていたのですが、その叔母がブルーバードの女性仕様車であるファンシーデラックスに乗っていました。今考えると、女性ドライバーが少ない中で、よくそのような企画をして実現したなとも思いますが、ウインカーを出すとオルゴールが鳴ったり、ハイヒールスタンドや傘立てなどが装備されていたりしました。そのブルーバードに乗せてもらうのが好きで、よく喫茶店にコーヒーを飲みに連れて行ってもらったりしていました。その叔母が代々ブルーバードを乗り継いでいたので、小さい頃から身近にそういう新しい車があり、とてもありがたい環境でした。
昭和30年代の車より
中学校に入ってバレーボール部に所属しましたが、相変わらずプラモデルを作ったりすることのほうが好きでした。今で言うウェザリングというか、ドロで汚れたような感じに一生懸命塗装をして、サンダーバードや戦車などを作っていました。ずっとこんなことをしていたので手先は器用でした。
高校は進学校に行きましたが、上には上がいることを痛感し、あまり勉強しなくなってしまいました。僕が高校生の時、初めてF1が日本で開催されました。見に行けなかったので、せめてポスターだけでも欲しいと思い、それで、学校祭の時に友人と教室にスロットカーのコースを作って、F1を盛り上げるイベントを勝手に企画しました。主催の新聞社に乗り込んで、F1を盛り上げるイベントを高校で行いますので、公式のポスターをください、と交渉して見事に手に入れることが出来ました。イベントはほとんど誰も来ませんでしたが、身内で盛り上がりました。スロットカーなので、まったくのこじつけです。ちなみに、今でも自分で企画したりすることは好きです。
現在もスロットカーは趣味のひとつ
高校3年生の時に、カロッツェリア・イタリアーナというスーパーカーのイベントが東京であり、名古屋からわざわざ見に行ったことを覚えています。当時スーパーカーブームだったとはいえ、カロッツェリアのショーカーを並べ、イタリアのカーデザインを紹介すると言う異色のショーでした。僕はベルトーネが好きで、その中でも一番好きだったアルファロメオ・ナバホも来ていました。他にもピニンファリーナ、ザガート、ミケロッティ、ジウジアーロなどの作品が展示されていて、自分が持っているミニカーの実車をみて非常に感動しました。
―スケッチの練習はどのようにされていたのですか。
カースタイリングを読んでいました。余談ですが、先日、日野自動車の松山さんのインタビューを読んだとき、18号を一番最初に買われたと書いてありました。僕が、一番最初に買ったのは19号なので、1号負けた!、と実は思いました。決して安い金額ではありませんでしたが、毎回買って参考にしていました。カーデザイナーになった方の大半はそうなのではないでしょうか。
カーデザイナーを目指そうと本格的に思ったのは高校3年生になったときです。油絵を描いている同級生が美大への進学を希望していることを、美術の先生から聞きました。それまでは全く話したこともなかったその同級生から、色々話を聞いて、自分が通っているような学校からでも美大に行くことができる、と分かったのがデザイナーを目指すきっかけです。それまでは、車は好きでしたが、デザインは自分にとっては全く現実的ではありませんでした。
そして、絵はよく描いていましたが、本格的なデッサンをしたことがなかったので、美大に入るために一浪覚悟で2年計画を立てました。
高校3年の時は小さな個人経営の画塾に通いましたが、予想通りに落ちたので、河合塾の美大コースに入りなおして、なんとか一浪で合格することが出来ました。デッサンは個人経営の画塾でも基本的には同じことを教えてくれていましたが、平面や立体の勉強では、河合塾にそれなりのノウハウがあったので、それが良かったのだと思います。
ラ・カロッツェリア・イタリアーナ’77で購入した本は今でも大切に所有している。
―武蔵野美術大学時代についてお聞かせください。
大学に入っても特にカーデザインの授業があるわけでは無いので、自分で練習するしかありませんでした。僕の時代には、自動車メーカーから誰かデザイナーが教えに来たりすることもありませんでした。スタイルオートという車に関するクラブがあって、そこに所属しました。カーデザイナーを目指す先輩がいたので、カーデザイナーとして就職する手順のような情報を聞くことができ、貴重でした。本来はカーデザインを学ぶサークルなのですが、実際はそんなことはあまりしていなくて、ツーリングに出かけたりがメインでした。先輩やうまい人に教えてもらう、みたいなことも特にはありませんでした。雰囲気ですか?わりと静かな感じで、率直に言うと、明るいクラブではありませんでした。
―就職についてお聞かせください。
愛知出身なので、トヨタに行きたかったのですが落ちてしまいました。どうしようかな、と思っていると大学の先生が「スズキみたいな小さい会社に行ったほうが面白いぞ」と言ってくれました。「そのほうがお前もいろんなことできるんじゃないか?」とも。その後、スズキの夏のインターンに参加し、そこでちょいのりタクシーみたいなものを提案したのですが、消化不良だったので絶対に落ちたと思っていました。
就職するとまずは半年の工場実習です。それでも長いと感じていると、2ヶ月の延長にあいました。その後も応援で呼ばれたりし、毎日疲れて帰ってくるので絵を描くどころではありませんでした。それが終わってデザイン部に配属になり、まず僕はインテリアの担当になりました。エクステリアがやりたくてこの世界に入ったので、これはとてもショックでした。また大学の時から図面を描くのが得意ではなかったので、その仕事も多かったですしね。
ですので、毎年エクステリアに配属希望を出し続けて、7年越しくらいに希望が叶ってエクステリアに異動することが出来ました。ちょうど、89年のモーターショーでカプチーノのインテリアやパーツを担当していた時で、それが市販化されるタイミングでエクステリアにいきました。忘れもしませんが、市販化が決まった後に改めて寸法を測ってみると、軽の規格から片側20mmずつオーバーしていました。ただ単に削ると縦横比が変わることで、印象も大分違ってきてしまいますから、皆で頭をひねりました。「量産になっちゃったらかっこ悪くなったね」と言われるのはどうしても避けたい一心で、試行錯誤して世に出しました。
その後2代目ワゴンRやエブリィ、MRワゴン、ラパン、とその他にも色々と担当させていただきました。
―大ヒット作であるハスラーはどのように生まれたのでしょうか。
ある販売店の社長さんから、スズキの会長に「スズキKeiみたいな車をもう一度作ってくれないか」という直訴があり、それがきっかけです。昔のジムニーやカプチーノには楽しい車という評判がありましたが、一方で近年のスズキは真面目すぎて面白みにかける、という声もあり、危機感を感じていました。そこで、アクティブなライフスタイルに似合うような、楽しい車を作ろうということになりました。私はチーフデザイナーとしてデザイン開発を担当したのですが、まずエクステリア、インテリア、カラー、モデルの人たちを集めてキックオフミーティングを設けました。
そこで3つのことを伝えました。まずは、販売店にひとつ展示してあるだけで、スズキのラインナップ全体が楽しく感じられる車を目指す、ということ。面白みを出しながら、他の車も引き立てるような存在を目指そうということです。もうひとつは既存の車と違って見える、ということ。他の車と似ていてはダメだということです。そして最後に、乗っているとどこまでも行きたくなる気持ちになるような、そんな車を目指そう、ということです。
―燃費やスペックを競うのではなく、わくわくするコンセプトや他とは違うスタイリングでクルマを作ろうということですね。
そうやってデザイン開発を進めていったのですが、おかげさまで多くの方々に受け入れていただくことができております。ハスラーという車は遊びの車と言いながらも、非常に実用的な車です。中身はワゴンRで室内空間は確保されていますし、地上高も高めなので雪国の方にとっても魅力的にうつります。ユーザーの構成比を見てみると、性別、年齢問わず、まんべんなく購入して頂いております。
―そういうクルマは珍しいですよね。服部さんにとって軽自動車をデザインするときに心がけていることはなんでしょうか?
軽自動車は日常の足なので、使っている姿と使っている人の関係を意識しながらデザインする、ということを大事にしています。車自体がカッコイイ形をしているのもいいですが、人が使うことによってさらによく見えるような、そういう方向が好きです。そして、軽自動車は数が多く、新車で売れている車の4割くらいが軽になります。ということは、その車のデザインによって街の景色も少なからず変わってきます。ハスラーは原色が売れていますが、交差点でピンクのハスラーが止まっていて、向こうからはブルーのハスラーが走ってきて、なんだかちょっと楽しくなるような気分になる、これは軽自動車をデザインする醍醐味のひとつだと思います。
―カーデザイナーを目指す方へアドバイスをお願い致します。
自分のこだわり以上にもっと大事なことに気づきなさい、ということを新入社員にもよく言っております。自分がいくらいいデザインだと思ったとしても、ダメと言われることは当然あります。感性は人によって異なりますから、どんなに良いデザインでも現実的にはそう言われてしまうことはあるわけです。そこでしゅんとなっていてはダメです。なんでこの良さがわからないんだ、とスネていてもやる気が無くなってしまうだけで、プラスなことがありません。そのマインドは建設的ではありませんし、自分の成長を止めてしまう恐れもあります。それよりも、二の矢、三の矢を放てるかどうかです。それが自分のデザインの引き出しを増やすことになります。
そして、クルマ以外のデザイナーを目指している学生に知ってもらいたいのは、カーデザイナーと一言でいってもインテリアやカラーなど色々なデザイナーが存在しているということ。クルマはとても多くのパーツで構成されていますから、デザインする対象はとても多いです。プロダクトだけでなくロゴをデザインすることもあります。雑貨をデザインしたい、グラフィックをデザインしたい、椅子をデザインしたい、そういう学生は実際なかなかクルマに来ませんが、実はクルマの世界に入ればそういうことがデザインできます。もしかすると、クルマが大好きじゃないとなれない職業だと思ってハナから頭にないかもしれませんが、そんなことは全くないので、進路の選択肢の一つに入れてみるといいのではないでしょうか。
編集後記
大ヒット作ハスラーを生み出した直後、スズキを退社し静岡文化芸術大学にてカーデザインの楽しさを教えておられる服部さん。取材後、クレイモデル室や塗装ブースを案内していただきましたが、1台つくれるキャパを持った充実の設備に驚きました。また、場所柄もあってスズキやヤマハなどのデザイナーが教えに来たり、2輪デザイン公開講座やカーデザインに関する展示会などを行ったりと、2輪、4輪デザインを学ぶ上で非常に魅力的な学校に感じました。服部さん、お忙しいところ大変ありがとうございました。
静岡文化芸術大学 = 静岡県浜松市中区中央二丁目1番1号に本部を置く公立大学。2000年に設置された。