【インタビュー】現役のカーデザイナーに会ってきた!ーやまざきたかゆきさんの場合ー
カーデザイナーを志す人に、少しでも有益な情報を届けたいという思いから始まりました、この現役のカーデザイナーに会ってきたシリーズですが、第3弾を迎えました。
どうすればカーデザイナーになれるのか、情報が少ないため、少しでもご参考になればと思います。
今回は前回インタビューをさせて頂いたカーデザイナー、根津孝太さんからのご紹介で実現いたしました。
前回記事はこちらよりご覧いただけます。
現役のカーデザイナーに会ってきた!—ツナグデザイン根津孝太さんの場合-
Honda在職中にApeやZOOMERのデザインを手がけたプロダクトデザイナー、やまざきたかゆきさんにお話を伺いました。
若者に特化した商品開発を得意とされており、ビックスクーターブームでは、商品のコンセプトはもちろん、カスタマイズ提案まで幅広く活躍され、ブームの立役者とも言われております。
また、在職中にproduct_cというアクセサリーブランドを立ちあげ、ディズニー映画挿入歌のMVでAKB48が装着し話題となるなど、DJ、VJをはじめとするアーティストが愛用し、メディアでも多数取り上げられています。
そんな異彩を放つプロダクトデザイナーから、カーデザイナーを目指す方々へのアドバイスも頂いてまいりました。
現役のカーデザイナーに会ってきた!ーやまざきたかゆきさんの場合ー
やまざきたかゆき(山崎 隆之)=1972年、長野県上田市生まれ。1993年、長野県立上田千曲高等学校電子機械科卒業。1995年に東京コミュニケーションアート専門学校(以下、TCA)卒業後、株式会社本田技術研究所に入社。若者に特化した商品開発を得意とし「Ape」や「ZOOMER」のコンセプト、デザインを担当。個人の活動として、アクセサリーブランドproduct_cを主催。近年では、若者向け原付スクーター「GIORNO」。42th東京モーターショーショーモデル「motor compo」は世界各国で注目を集めた。2012年、同社を退職しプロダクトデザイナーとして独立。2013年よりBMSKコンサルティング(場面思考研究所株式会社)に上席主任研究員として所属し、コンサルタントとしても活躍中。
乗り物との出会い
父がバイク好きだったので、Hondaに乗っていました。
長野の城下町で生まれ育ち、1歳の頃、毎朝父が仕事に行く前に、おぶり紐で背中に括りつけられて、お堀の周りをバイクで一周する『一周』という儀式みたいなものをしていました。
その頃から、内燃機や機械的なものが好きになっていったのだと思います。
親戚一同クルマ好きが多かったというのもあるのかもしれません。
当時、一番気に入っていたのがスバル360で、独特の音がするため、何故か僕はそれを“エンジン”と呼んでいました。
それに乗っている親戚のおじさんが来ると「エンジン!エンジン!」と言いながら、ボンネット開けさせてエンジンを見せてもらう、ということをやっていたみたいです。
見た目も可愛らしくて、エンジン音とかも独特な、生きているような感じがして、とにかくスバルが好きでした。
スバル360=富士重工業(スバル)が開発した軽自動車。1958年から1970年までのべ12年間に渡り、約39万2,000台が生産された。そのかわいい姿から「てんとう虫」という愛称が与えられ、登場後12年にわたり長く人々に親しまれ続けた。
父親が仕事で印刷をしていたので、夏休みになるとバイクに乗せてもらい、会社まで行って遊んでいました。
インクの匂いや輪転機の音を聞きながら、落ちているもの拾ってくっつけたりして。
機械好きでものづくり好きはこの頃からスタートしたのだと思います。
紙の切れ端などが簡単に手に入る環境だったので、友達と集まって漫画を描く大会のようなこともしていました。
当時、Dr.スランプアラレちゃんが流行っていて、作者の鳥山明はメカやクルマを結構凝って描くので、そのタッチを真似しながらスバルを描いていました。
それをしながら油粘土でモノコックを作り、ドアを貼り付けて、イス付けて、クルマを作っていました。かっこ良く言うなら、カースケッチとクレイモデリングですね。
タミヤさんの影響が大きいと思います。プラモデルが良く出来ていたではないですか。
模型は高くて買えないので、模型屋行って中開けて、説明書とか読みまくり、必死で見て記憶して、家へ帰ると「たしかこうなってたよな〜」とか言いながら再現するのです。
しっかりホイールアーチを作り、サスペンションみたいなものにタイヤをつけ、とけっこう完成度は高かったと思います。
その後、小学校5年生くらいの時に、ラジコンブームが来たので、近くの高校に潜り込み、オフロードタイプのやつをみんなで走らせたりしていました。
同時期にパソコンにも熱中しました。NationalのMSXを買ってもらい、BASICという言語を使ってプログラミングしました。
自作のゲームを作るのが流行っていたので、プログラマーになりたかったです。
マイコンBASICマガジンという本に、ちょっとしたゲームのプログラムが書いてあったので、それを打ち込みながら、アレンジしたゲームを友達にさせて喜んでいました。
絵やプラモデル、パソコンに加えて、中学生になると聖飢魔IIが好きになり、ハードロック系のバンドを組んで、近くの楽器屋のスタジオに通っていました。
そこにいる地元の兄ちゃんたちに教えてもらったり、余りの弦をもらったりなどして、その頃の生活は完全にバンドがメインでした。
高校は勉強しなくても入れる上に、こっそりバイクの免許が取れるという噂の、千曲高等学校電子機械科に入りました。
Hondaに入ると決意した高校時代
最初に乗ったバイクは、友達から2万円で売ってもらったスズキのRG50Γです。
振動がひどく、走っているたびにどこかしら部品が取れてしまっていました。
しかしとても速かったです。地元には峠がたくさんあるので、走る場所がいっぱいありました。
当時膝すりが流行っていたので、膝に空き缶をつけて、ツナギを着て走っていました。
僕が組んだエンジンが一番早い!と噂になって、改造依頼がきてやってあげたり、プラモデルで培った技術を活かして、全部タミヤカラーに塗装したり、カッティングシートを切って貼ってデザインしたりしていました。
クオリティーは高かったです。もちろん中もイジっていました。
台所にエンジンを置き、全部バラして、「この方が早いはずだ!」など言いながら組んでいっていました。
終わるまで気になって寝られないので徹夜でした。
バイク屋に通って教えてもらったり、改造のバイク雑誌を読みあさってやっていったりすると、予想通りとても速いものが出来上がりました。
それが気持ち良く、ひとりチューニングショップみたいな感じでした。
そして、どんどん趣味が増えていきました。
バイクと並行して、絵を描いたりプラモデルやパソコンをしたり、バンドもしていたので、勉強はできませんでした。
朝までエンジンを触っているので、学校は寝る場所と決めてずっと寝ていたほどです。
自分のやりたい勉強だけは起きていますが、それ以外は全て寝て、テストでは100点か0点かでした。
スズキRG50Γ=原付クラスの定番ロードスポーツとしてファンに親しまれていた。原付クラスとは思えない豪華な造りが特徴。
ファッション好きだったので、学生服を自分でデザインして裾をすぼめたりしてオリジナルのものを作り、怖い先輩に呼び出されてシメられたこともありました。
今話していて思いましたが、これでは絵に描いたような不良学生ですね。
その頃はまだデザイナーになりたいとは思っていませんでした。
どちらかというと、バンドをやって音楽で食っていくか、クルマのカスタム屋さんでチューナーとして働きたいと思っていました。
そうこうしているうちに卒業が近づき、進路指導がありました。
将来なにをやりたいか考えていると、やりたいことが色々思いつきました。
バンド、絵も描きたいから漫画家やイラストレーター、ファッションデザイナー、レーサー、チューナーになってイジる方もいいな、Hondaにも行ってみたいな、と思いました。
そこで一番ハードルが高いところから攻めよう、と思ったわけです。
例えば、バンドはバンドやっています、と言い切ればやっているものですし、ライブハウスにも出られます。
そのように色々考えていくと、Hondaに入るのが一番大変そうだという結論になりました。
親も喜びそうだ、という気持ちもありました。
それから色々本屋で調べていると、美大に行かないといけないという事が分かりましたが、お金も無く、そもそもデッサンもしたことがなかったので無理だろうと思いました。
そのような時にTCAという学校に、オートバイデザインがあることを知り、Hondaに入った卒業生も多かったうえに、Hondaの講師から学べ、Hondaとのプロジェクトもあったので、TCAに行こうと決めました。
願書を書くから取り寄せて、と親に頼むと「あんた締切過ぎてるよ!」って言われ、見てみると体験入学から試験から全部過ぎていました。
東京コミュニケーションアート専門学校=略称、TCA。カーデザインを学ぶ4年制の自動車デザイン科は長い歴史を有し、卒業生の多くがトヨタ、日産自動車、Hondaなどの大手自動車メーカーの研究開発デザイン部門への就職を実現している、日本屈指のカーデザイナーを輩出する専門学校。
TCA時代について
そのとき、お金も無いのでバイクを買うために、地元のピザ屋でバイトをしていました。
チェーン店ではなく、自分たちで作っているようなピザ屋で、配達でバイクもクルマも乗れて、ピザ作るのも好きだったので、学費を稼ぐために1年ちゃんと働こう、と思いピザ屋に就職しました。
働いていると段々このままピザ屋でもいいかな、という思いも出てきました。
ピザを頭の上でクルクル回せるくらいに上達し、そこの女性店長とお付き合いしていたので、この人と一緒ならいいかな、と思っていたところ、その人が急に僕を振りました。
「あんたなんか嫌い」と振られ、悔しくて、見返してやろうと思い、東京に出る決意をしました。
しかし、まだお金もそんなに貯まってないしどうしようかと思っていた夏の日の夜、バイト終わりにバイクで国道を走っていると脇道からいきなりクルマが出てきて、止まれなくてぶつかってしまいました。
血だらけになりながら唸っていると、そのクルマに乗っていたおじさんが、「大丈夫か!救急車呼んでくる!」って言ってそのまま逃げてしまいました。
足が折れていたので入院し、入院中にそのおじさんが捕まり、慰謝料を受け取りました。それとバイト代を足すと入学資金になったので、無事TCAに入ることが出来ました。
1992年にTCAに入学し、当時カーデザインが流行っていたため120〜130名くらいいました。今では考えられないですよね。
また、絵のうまい人も多かったです。もう手の届かないくらい上手で、その時から自分の勝ち技は絵ではないな、と思っていました。
描いている人は、半端ではなく、朝から晩までずっと描いています。
僕はバイクにも乗らないとならないし、女の子とも遊びたいし、お酒も飲みたいし、そんなに書き続けることは出来ないな、と思いました。
そこで勝負するのは、はなから無理なのです。
また先生からも「お前は描かないタイプだ!」などと言われていたこともあり、そこで勝とうとすることは相当無理な話だと痛感していました。
ただ、面白いことを考えるタイプだ、とも言われていたので、コンセプトワークの方を太らせようと思い、そこに焦点を当てて伸ばしていきました。
他の人がやっていることは絶対にやらない、と決めました。
学生なので、右に倣えになってしまいがちですが、しかしそれをしてしまうと絵の上手い人には勝てません。
勝てないと思った時点で、追いかける側になってしまいます。
勝つためには自分の土俵で戦わないといけないのです。
なぜそういう考え方を持ったかというと、中学の陸上部時代が関係しています。
100メートルをしていたのですが、どうも勝てそうにないと分かり、110メートルハードルに変更しました。
そうすると県大会直前くらいまではいけて、部長にもなれました。
そのロジックがあり、混んでいるところには行かず、空いているところで勝負するという考えが身につきました。
自分を客観的に見て、練習量も情熱もそこまで無いことが分かると、負けず嫌いで集中力や頑張る力みたいなものは、好きな事に関してはあったので、勝てる勝負をするために、ということを徹底的に考えました。
当時は、コンセプトの方に重きをおいている人は少なかったので、描けない人はどんどんドロップアウトしていき、7割くらいは学校に来なくなってしまったのではないでしょうか。
バブルが弾けた後だったので、募集も本当に少なくて就職が難しくなった時代でした。
2年次に産学協同プロジェクトでHondaが来ました。
3ヶ月くらいのプロジェクトだったと思います。
そこで、絶対にトップをとらないとアウトだな、と思い挑み、その期間は人生で一番気合を入れて頑張りました。
コンセプトワークからデザインをし、プロダクトを作るという流れで、それぞれで優秀な作品が3台ずつ選出されました。
たしか「10年後のスーパースポーツを考えなさい」のようなテーマだったと思います。
当時は走りに徹しているのはレーサーレプリカしかなかったので、街に馴染みにくかったです。
僕が考えたのは、街に馴染む、お洒落なレーサーレプリカじゃない、レーサー的な性能を持ったバイクでした。
ボディーのプロテクションみたいな部品がアクセントになり、転んでもそれを変えれば大丈夫というテーマで作りました。
コンセプトを死ぬほど考えて、絶対にこれなら勝てると思って当時のデザイン部長にプレゼンすると1番が取れました。
その後、デザインワークで中々うまく描けなかったのですけが、Hondaの現役デザイナーから教えてもらいながら、少しずつ上手くなっていきました。
次は、モデラーの学生とチームを組んで仕上げるのですが、そんな大事な時期に、気晴らしに友達から買ったばかりの400ccのレーサーレプリカで湾岸に走りに行きました。
気持ちよく颯爽と走っていると、急に出てきたタクシーに追突してしまい、あまりの衝撃で体がクルマの下に潜り込んでしまい、タイヤに足が巻き込まれながらしばらく引きずられてしまいました。
即救急車です。
最後のモデリングの時は、Hondaの人もモデラーもみんな立っているのに、僕だけ偉そうに座りながら指示していました。
どうも僕は人生の大事な時に事故にあってしまうようです。
そんなこともありましたが、最終的にHondaからの評価はとても高く、学校の方も気に入ってくれたため、モーターサイクルショーに僕が作った作品を出してくれました。
そこに取材に来ていたバリバリマシンという走り屋系の雑誌が、大きく取り上げてくれたのが嬉しかったです。
そのHondaとの産学協同プロジェクトで評価の良かった先輩が内定をもらっていたので、僕も期待していました。
しかし、いざ就職試験の募集がくると、TCAにはモデラーの募集しかきませんでした。
「俺の人生終ったも同然だ」と思いました。これでは田舎にも帰れないとも思いました。俺の人生終ったも同然だ、とも思いました。
先生に相談すると、「こういうのはデザイン室だけではなくて、総務が決めるから仕方がないんだよね」と言われました。
プロジェクトの時にデザイン室のマネージャーの名刺を頂いていたので、「学校さえマズくなければ直接電話してみたいんですけど…」と食い下がると、先生が、「俺がかけてやる」と言って電話してくれました。
「募集来てないのは分かっているのですが、受かる受からない関係なく評価外でもいいので実習だけ、体験という形で受けさせてもらえませんか?」と取り合ってくれました。
そうするとそのマネージャーが総務と掛けあってくれたおかげで、奇跡的に何とか参加できることになりました。
産学協同プロジェクトで作った作品も、持ってこなくていいと言われていたのですが汚いワンボックスに積んで就職試験に持って行きました。
他の皆は、ポートフォリオなどを持ってきていたのですが、僕だけ「バイクはどこ置けばいいですかー!?」とワンボックスから降ろし、他の学生は完全に引いていました。
クオリティー高い、などと皆言ってくれるのですけが、当たり前です、Hondaのプロの方の手が入っているので。
そもそも僕は枠が無い中参加したので、受かるとも思っていなくて、出落ちくらいに捉えていました。
実習は徹夜でひたすら絵を描いて、上手な人の順に内定がでると先輩から聞いていたので絶対に無理だと思っていました。
しかし、あまりにも徹夜をさせすぎてHondaの総務的に問題になったらしく、今年から徹夜禁止でしっかり8時間で終わるように進める、と伝えられたのです。
さらに今回はバイクの絵を描きません、と言うのです。完全にこっちに風が吹いてきたと思いました。
それぞれ色々なテーマがり、それを各々こなしていきました。
「機能的なゴミ箱を考えてください。」「フォルムという商品があったとしたらどんなパッケージやロゴでしょうか?その商品も考えて下さい」このようなテーマだったと思います。
絶対に笑えるようなやつや、皆がビビるようなやつを考えてやろう、面白がってやろうと思い一生懸命やりました。
「あーいい思い出だった」と思って実習が終わりました。1週間くらいだったと思います。
2名しか受からないと聞いていましたし、有名美大の人たちばかりで、その人たちのポートフォリオを見るととても上手かったので、まさか受かるとは思っていませんでした。
そう、受かったのです。
先生に報告すると、「この課題でこれだけのネタ出してたらそりゃ勝つわ」とドヤ顔で言われました。
「アイデアの展開力やデザイン力がとても良い。得意な領域で良かったね」とも言ってくれました。
その年のHonda内定者は、デザイナーが僕と桑沢デザイン研究所の女の子で、モデラーは僕が大破させてしまったバイクを売ってくれたTCAの友達でした。
バリバリマシン=平和出版株式会社より発行されていた二輪車のローリング族を対象に特化したオートバイ雑誌。“バリマシ”もしくは“BBM”と省略されて表現される事もある。
桑沢デザイン研究所=バウハウス思想を継承した日本で最初のデザイン教育機関としても知られている。カーデザインやプロダクトデザインの授業も充実しているため、プロダクトデザイナーやカーデザイナーも多数輩出している。
Honda時代
Hondaに入ると、僕の時代はまず他の部署に行かされました。
デザインブロック、研究ブロック、テストブロックと分かれていて、要はデザイン屋さん、設計屋さん、乗り屋さん、です。
デザイン以外のところに1〜2週間ずつ丁稚奉公みたいに行かされ、仕事の流れを教えてもらうのです。
テストコース行き、テストライダーの後ろに乗せられて300キロ出されて、「どや!」みたいな体験もありました。
テストコースは革ツナギが制服なので、持ってない人は借りてこい、と言われ、僕は峠小僧だったので、かなり気合の入った自前のボロボロのやつを着て行くと、テストブロックの人たちの目の色が変わりました。
「お前、やるな!走れるやつだな!デザイン室は走れねえやつばっかりなんだよ!」と喜ばれました。
膝とかバリバリ擦れていて、転び傷がいっぱいあるのでウケるだろう、とは思っていましたが思いのほか可愛がってもらえました。
峠小僧をしていたのが、こんなところで活きるとは思いもしませんでした。
後々、連携してくる所なので、非常に勉強にもなり仕事もやりやすくなりました。
最初はデザインなんかさせてもらえないのでカラーリングからです。
1996年にマットメタリックのカラーリングをしていたのですが、実はおそらく世界初だと思います。
4色分解のステッカーで大理石ぽくしたものを作ったり、初期のi macの時代には、スケルトンのものを作ったり、と飛び道具的な尖ったことをしていました。
そして、その後初めてデザインとしてした仕事がApeです。
モンキーというと、良いのだけど小さすぎて少しこっ恥ずかしい人もいるだろうからでっかいモンキーが欲しいね、というイメージです。
僕はNSR50で育ちましたが、12インチのハイグリップタイヤが履けるくらいのサイズ感で、しっかり立ったエンジンで普通のものが欲しいとなりました。
以前から皆そう言っていたのですが、出すタイミングも無く、上からそんな企画が降りてくるわけでもないので、そういうバイクをどこも出していませんでした。
そして、たまたま若者研究というプロジェクトが会社で始まり、お前が旗振ってなんかやれ、と指示が出ました。
その時に、Apeを考えて、動くモデルで作ってみると、「やっぱりいいね」などと皆ニコニコして言ってくれるのです。大変だったけれど楽しかったです。
Ape=2001年2月、Honda・Nプロジェクト第1弾として発売された。2002年2月にはエイプ100が追加販売。スタイルはトラッカーともネイキッドとも取れる独特なもの。 ユーザーの多くは若者だが、多くのカスタムを施している中高年ユーザーも存在する。ある種ネイキッドに近いスタイルを生かして、レース仕様にしているユーザーも多く見られる。
その後が、ZOOMERです。
Hondaの中で、海外の研究所のデザイナーたちとコミュニケーションを取る催しが年に一回あり、それぞれの国でやるのですが、日本でやるときに僕がアテンドに選ばれました。
日本の若者に特化した商品を考えよう、というテーマで日本の若者文化といわれるようなところを周ったり、お寺など周ったりしながら実施されました。
その時にZOOMERのコンセプトが生まれました。
プラスチックはかっこ悪いよね、メットインって便利だけどおばちゃんぽいよね、みたいな意見が出ました。
当時、若者の間でバックパックが流行っていて、色んな自慢アイテムを見えるようにカバンに入れていたのです。
スケボーを挿したり、お気に入りのスニーカーを見えるようにしたり、していました。グレゴリーなどが流行っていた時代です。
そういう人たちにメットインは要らないのではないか、彼らたちは自分の持ち物を自慢したいのではないか、と考えました。
バックパック持っているのだから、もっとフレキシブルに収納があり、プラスチックではなくて、タフで長持ちする道具みたいな相棒がいいのではないか、と考えていき、出来上がりました。
傷ついてもかっこいい、という感じでガードレールにガシャっと停めるイメージです。
性能に関係なく、ファットタイヤでがっしりと大地をつかむようなバランスで、丸いライトがついていて、やたらと使えそうな感じを意識しました。
使い込めば使い込むほどカッコよく、当時の裏原系の美容師さんやショップ店員さん使ってくれるといいね、と思っていました。
ヤマハにBW’Sというのがありました。
それもビーチを走るために作られたスクーターなのですが、マニアック過ぎて全然売れていませんでした。
それをもっとファットなタイヤにして乗っている人がかっこよかったのです。
そのこともあったのと、原付は使えなければ意味が無いので、日々の足をかっこ良くする、ために作りました。
ZOOMER=2001年6月に発売。先に発売されたApeに続くNプロジェクトの第2弾として登場し、主に個性を主張する若者をターゲットに作られた。発売以来、ネイキッド(スクーター特有のプラスチックカバーがない)スタイルに、前後の極太タイヤや、デュアルヘッドライトを採用した新感覚のデザインが若年層を中心に多大な人気を得ている。
「お前面白いからコンセプト作りに4輪のとこ行って来い」と言われ、4輪もしていました。
超先行モデルのような感じで発表できないものばかり作っていました。
コンセプトカーにもならないようなもっと未来のもので、クルマ以外の事で Hondaを楽しくするアイデアなどを一日中考えていました。
その後、Hondaが裏原宿に作ったH-FREEという、アパレルショップ兼リサーチショップのお店とも関わりました。
カスタマイズしたバイクなどを置いて反応をみたりしました。
ビックスクーターブームがあったので、僕もカスタムしたビックスクーターに乗って通いながら、アパレル店員みたいなことをして、本物のユーザーと仲良くなりビックスクーターブームに対しての提案を会社側に色々していました。
当時僕が乗っていたフュージョンが裏原界隈で神と崇められていて、見る人見る人から声を掛けられました。
バンクするところにチタンボルトが入っていて、火花をあげながら曲がり、これが流行ったのです。
マッドブラックにピンストライプのデザインで、結局この仕様の量産車が出ました。
この辺りも幼少期からパラで色々やり、他ジャンルのことをインプットしていたことがいい方向に働いたお陰で、現実的に出来たと思います。
H-FREE= 2003年4月、原宿キャットストリートにアンテナショップとして登場。若者が多く集まる渋谷〜原宿に拠点を構え、リサーチをする目的で構えられた。
この時期になると、大分ストレスも溜まってきてしまっていました。
要は、自分の作ったものに対して相手がジャッジするのは当たり前なのですが、それが苦痛な場合も多かったのです。
楽しく仕事できることもありましたが、それには相当な体力がいるのです。
ApeやZOOMERを作るのも、僕が黙っていたら絶対に世には出ませんでした。
全部が全部そうではありませんが、大きな声を出し、色々な人を動かして、ギャーギャー言って怒られながらやるのも疲れるなぁと感じてきてしまっていました。
時には聞き流すことも必要ではないですか。
そのときのストレスがかなり溜まっていたため、「自分ジャッジでデザインをして、不特定多数の人がいいと思って、買ってくれたらいいよね」と思いオリジナルのブランドproduct_cを作りました。
自分がクラブに行くときの服がない、というのが一番で、もっと目立ちたい、光ったら面白そう、アニメみたいな世界観で、且つもう少しカチッとした工業製品みたいな服を作りたい、という気持ちがありました。
普段の仕事もありますが、基本的には全部パラレルで進め、H-FREEの時に仲良くなった人を巻き込みながら進めていきました。
H-FREEの時に仲良くなった人とかを巻き込みながら、いいじゃんいいじゃんって感じで
進めていきました。
product_c= 2007年設立。アクリル、LEDなど、素材の持ち味を活かした、新感覚アクセサリーブランド。シンプルかつインパクトのあるアクセサリーをプロデュースしている。SlipknotやAKB48が装着し、海外美術館で展示されるなど、今後の展開にますます目が離せないブランドである。参考 http://pdc.main.jp/
Hondaという会社
そうですね。
良くも悪くも小学生しかいないような、子供みたいな人がいっぱいいる会社ですかね。
“試す人になろう“というコマーシャルありましたよね。
実は僕も出ているのですが、あれって本当に隠し撮りなのです。
そのまんまの世界で、ほんとにワイワイ情熱を持ってやっています。
ApeやZOOMERみたいな面白いものが企画として出てしまえば、皆ワーッと集まってきます。
僕が最後にデザインしたのがMSXなのですが、その時も皆一斉に集まってきて、必死で作業をして、ニコニコワクワクしながら「俺が喧嘩してくるから!」「じゃあ俺文句いうからそれ止めるフリして!」と悪巧みをしていました。
つまらなくなっているというご意見もありますが、Ape系のノリが出という意味では、MSXは久々です。
「ガチで速そうなApe作ろうぜ」と、タイではとても売れています。
向こうの若者にはドハマりで、一時期プレミアが付いて1万バーツくらい値段にのっかっていたらしいです。
これからの展望について
独立したときに肩書きを何にしようかな、と考えました。
product_cでファッション手がけていますが、やはりプロダクトデザイナーの視点は大事だと思っています。
プロダクトデザイナーを軸にしてはいるのですが、しかしその前に『スマイルメーカー』という肩書きの方がピンと来ました。
「何をしたいの?」と聞かれたた時に、人が喜ぶ。笑顔になる、そういう仕事で僕はこれから食って行きたい、そう決めたのです。
そのための手段として、プロダクトデザインの経験があります、というくらいでいいかなと思っています。
また、幅広く色々とやらせていただくのであれば、僕の今までの仕事を見て頂き、僕個人を見て頂いた上でお仕事を頂ければ、と思っています。
そして、できるならば、一本軸でバイクを10台作るのではなく、例えば、バイクがあって、乗る人がどのような服を着て、どのような場所に遊びに行くかを考えて作りたいのです。
もしカフェに行くのだったら、そこにある机や椅子ってどんなもの?かかる音楽って?
という横軸で、やまざきたかゆきデザインというものを作っていきたいです。
—今、一番力を注がれていることな何でしょうか。
作る環境を作りたいです。
来期、会社を立ち上げようと思っているのですが、カフェのような感じでモノとコトを作れるような場所にしたいです。
人が来てコミュニケーション取りながら遊べて、という環境ですよね。工作機械が置いてあって、クリエイター同士でワイワイ言いながら自由に使えるようなイメージです。
もう一つは、知り合いがクロコアートファクトリーというところで、ルーメットというシェル型の引っ張れるキャンピングカーを作っています。6帖くらいあるやつです。
これを僕のABARTHで引っ張って移動する作業場みたいなものを作っても面白いかなと思っています。
自分の趣味や人生、価値観を切り売りして面白く生きていけたらいいなと思うのです。
それを見て、笑ってくれる人、あいつ楽しそうだな、と集まってくる人がいれば最高ですよね。
ルーメット=クロコアートファクトリーが販売する、けん引免許を必要としない750キロ以下のトレーラー。卵の殻のような親しみのわくデザインで、軽さと強度も備えている。
参考 http://www.crocoart-factory.co.jp/roomette/
カーデザイナー(プロダクトデザイナー)を目指す人へのメッセージ
なりたいデザインの専門知識ばかりを学ばないことだと思います。
クルマだったら、ひたすらクルマに集中してその知識を得るというよりは、他にもっと興味を持って目を向けておいたほうが良いです。
どうせ後々嫌でも仕事でしこたまやらされますからね。
僕は幼少期からパラレルで色々やる癖があったおかげで、就職試験に受かり、Hondaに入れました。
自分の得意技をいくつか持っておくっていうのが良いのかなと思います。
異種格闘技戦みたいなことで言うと、足技・手技・寝技と色々あると思いますが、「コレじゃなかったらこれ!」という感じで、複数技で勝ってください。
1つだけでは上には上がいるので、絵がうまい人は本当に上手いですから。
僕はそれだけでは勝負できませんが、組み合わせると一番なのです。
ギターが弾けて、バイクのエンジンが組めて、プログラミングができて、絵がうまい、その中では絶対に1番の自信があります。
そういう方向や土俵に持っていければ、色んなシュチュエーションにマッチする唯一無二のデザイナーに慣れると思うのです。
アウトプットするために、アウトプットの技に集中しがちですが、そうではありません。
アウトプットをするために良質なインプットをいっぱいするのです。
最初は広く浅くでもいいと思います。いかに良質なインプットをたくさん得るかに重きを置くのです。
学生の頃も、他の人が一生懸命絵を描いてテクニックを身につけている中で、僕は遊びに行って、色んな情報を肌で感じてそれをコンセプトワークに活かしていました。
クルマがあって、その周りに何が起きているのか、その周辺のものも一緒にデザインできるデザイナーになってほしいなと思います。
これからもっとそういうことが大事になってくると思うので。
ポイントは自分ならではの良質なインプット。
会ってみたいな、飲みたいなと思わせるデザイナーになってください。
そうなったら…僕はあなたをライバルと認識します。
編集後記
『アウトプットを支えるのは、良質なインプット』という言葉がとても印象的であり、また非常に狭き門であるカーデザイナーになるために、徹底的に考え抜き、自分の土俵で勝負することで勝ち抜く方法を、ぜひカーデザイナーを志すみなさんにも参考にして、考えてみて頂きたいと思いました。