カーモデラーからデザイン部長へ。きっかけは一通の年賀状だった!? ―日野自動車デザイン部長 松山耕輔さんの場合― | Car Design Academy [カーデザインアカデミー]|オンラインのカーデザインスクール

カーモデラーからデザイン部長へ。きっかけは一通の年賀状だった!? ―日野自動車デザイン部長 松山耕輔さんの場合―

皆さん、八王子市郊外にある日野オートプラザをご存知でしょうか。トラックやバスなど、働くクルマの製造で知られる日野自動車の歴史を紹介する展示館なのですが、今回は、その日野オートプラザにて、デザイン部長である松山耕輔氏からお話を伺いました。まずは、松山氏のクルマとの出会いから、就職までの経緯をお聞きしました。

日野自動車株式会社 = 東京都日野市に本社を置く、主にトラック・バスといった商用車を製造する日本の自動車メーカー。トヨタ自動車の連結子会社でトヨタグループ16社のうちのひとつ。国内トラック・バス業界最大手。世界各地に拠点を有している。wikipediaより

 

思い出アルバム様より引用

 

日野オートプラザ = ダカール・ラリーで完走した日野レンジャーから、消防車、はたまたコンテッサといった乗用車に、航空機のエンジンまで、時間がいくらあっても足りない魅力的な展示物が展示されている。子どもたちにも人気なミニカーやジオラマも。入場料は無料。休館日や詳細はホームページでチェック。

 

現役のカーデザイナーに会ってきた ―日野自動車デザイン部長 松山耕輔さんの場合―

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松山耕輔 = 1959年8月6日生まれ。神奈川県横浜市にて生まれ育つ。75年、県立神奈川工業高校の産業デザイン科プロダクトデザインコースに進学。78年、日野自動車工業株式会社(現在の日野自動車株式会社)にモデラーとして就職。自身が20歳のとき、職種転換試験を受けデザイナーに。ハイラックスサーフ(トヨタ)などのデザインを担当する。1989年、田町に日野自動車の東京スタジオが立ち上がるのをきっかけにアドバンスチームへ異動。その後、社長直轄のビッグバンプロジェクトで総合企画を経験した後、デザイン室に室長として戻る。2011年、デザイン部部長に昇格し、現在に至る。

 

父親が自動車に文字を書く看板屋をしており、子供の頃から絵やクルマはとても身近な存在でした。東京トヨペットの各営業所で受注した様々な会社の営業車やタクシーなどに、レタリングする仕事で、たまに職場に連れて行ったもらったときに見るカラフルな新車が好きでした。高校生の頃はアルバイトで手伝ったりしていました。

父は小さいころ絵描きになりたかった延長線で看板屋になりました。ですから休日にスケッチ散歩に一緒に出かけたり、上野の美術館などにも連れて行ってもらったりしていました。高校は県立の工業高校に進みました。産業デザイン科のプロダクトデザインコースで将来はクルマのデザイン関係に進みたいなと思っていました。ただ当時の自分の感覚では「カーデザイナー」というのは漠然とした存在で、まずはカーデザインに係わる仕事に就きたいというような意識だったように思います。

巷ではスーパーカーブームでしたが、カーグラに傾倒していた私はちょっと冷めた目線でそれらを見ていて、ルノー16やシトロエン2CV、GSなど、実用的なフランスの小型車たちが好きでした。当時、カーデザインに関する情報源はカーグラの児玉さんの記事やカースタイリングで、月々の小遣いをコツコツ貯めて買っていました。スタイリッシュでスポーティなクルマよりも、日常生活に根ざした実用車を志向していた時に出会ったのが1977年、カースタイリングのラリー・シノダ特集です。

ラリー・シノダ(1930年3月25日 – 1997年11月13日)= シボレー・コルベットやフォード・マスタングといった作品で知られるアメリカ合衆国のカーデザイナー。wikipediaより

「WHITE」というアメリカのトラックメーカーのマイナーチェンジをしたスケッチが載っていました。古びた骨格に新たな命が吹き込まれるような生産財のマイナーチェンジのスケッチがとても魅力的に感じられ、こんなカーデザインの分野があるのかと、そのすばらしさに感激しました。後日談ですが1993年にラリー・シノダ氏が日野の東京スタジオにいらっしゃったことがあります。真面目で実直な印象の方でした。カースタイリングの記事がきっかけでこの道に来ました、と告げると大変喜んでおられました。そのときに頂いた名刺は家宝にしています。

そういうこともあり就職志望を日野自動車、いすゞ、ヤンマー、クボタに絞りましたが、縁あって高校の先生から日野を推薦していただき、採用試験を受けてモデラーとして入社することができました。しかし入社したものの、新人オリエンテーションを終えた翌週から、日野市よりも、さらに山奥の羽村工場で夜勤という社会人生活がスタートしました。1年間という期限付きで、日々ハイラックスというピックアップトラックを、昼夜2交代勤務で作っていました。

-モデラー採用だったのですね。その間にモデラーの仕事もご経験されたのでしょうか。

いいえ。とにかく工場で一生懸命車を作っていました。会社に入ってデザイン的なことをしたのは、羽村工場の寮で文化祭みたいなものがあり、その中のイラストコンテストという企画が最初です。今考えると目立ちたかったのかなと思いますが、羽村工場では FFターセルも生産していたので、そのプラットフォームを使ったミニバンのレンダリングを出しました。金賞を取りました。

しかし、1年という期限が近づき、ようやくモデラーの仕事ができると思っていた矢先、2か月の期間延長をうけました。その延長を終えようとしている時、さらに別工場で応援再延長という話がきたので、さすがに人事がおかしいだろう、とそう思って昼休みに人事部に直訴に行きました。

-思い切った行動をお取りになられたのですね。

「人事がおかしい、間違っている」と、19歳の若造の自分が、直接人事に怒鳴り込みに行きました。そうすると「必ず期限を切りますから」となだめられて2ヶ月後にデザイン部に戻りました。モデラーですから最初は自分の道具を自分で作るところからスタートしました。スクレイパーやスリック(へら)を作りました。当時大変だなと感じたのは、クレイの粗盛りで、熱いクレイを指や手のひらを使ってクレイバックになすり付けるように盛っていくので、手の皮がむけたり、マメができたり、と不慣れなわたしには大変な作業でした。

粗盛り = クレイモデルを作る際の第一ステップとして、おおまかに車の形にクレイを盛ること。インダストリアルクレイは温度が高く、初心者は手の皮がむけてしまう。

 

今は仕事が細分化されていますが、そのころはクレイも木型もFRPも、そして測定や自動製図なども、全てやらせてもらえました。塗装は天気によってスプーンから垂れる塗料の速度で濃度を調整して、アナログでした。

-デザイナーに転向したきっかけをお聞かせください。

モデラーとして仕事を習得していく中で、だんだんデザイン開発の仕事の雰囲気や流れが見え始めたあたりです。最初はあまり意識していませんでしたが、デザイナーの仕事に興味を持ち始めました。しかしながら、デザイナーになりたいと常に強く思っていたわけでもなく、かといってモデラーの仕事に不満があったわけでもありません。デザインをしている現場に参加し、クルマ作りに携われることに喜びを感じていました。ただデザインの仕事にも興味があったので、先ほどの寮祭のイラストコンテストと同じで目立ちたかったのかなと思うのですが、自分なりにこだわった写真などを使った年賀状を上司に出していたところ、あるときスケッチを描いてみろと言われました。その後、デザイン室に仮配属になり、アイデアスケッチに参加するようになりました。

-カーデザイナーに転向したい方は多いと思うのですが、まさか年賀状がきっかけだったとは驚きました。

人生なにがどう転ぶかわからないものですね。また、モデラーの大先輩、通称「おじいちゃん」と呼ばれていた上司にも「お前はデザイナーの方がいいんじゃないか」と言われました。それで職種転換試験を受けることになり、正式にデザイナーになりました。ただ、薦められたきっかけはデザイナー的センスではなくて、私は左利きなので刃物や木工機械などの扱いが危なっかしくて見てられなかったかららしいです。

-そういったご経緯もおありだったのですね。本当に人生なにがどう転ぶか分からないものですね。

デザイナーになってからはハイラックスやハイラックスサーフ、アメリカ向けT100というピックアップなど、インテリアをメインにトヨタの仕事を担当していました。コンスタントにプロジェクトはありましたが、日野は商業車を扱っていることもあり開発タームが長いため、忙しいトヨタで経験を積んでこいと引っ張ってもらい、その後トヨタデザイン部へ出向することになりました。

トヨタに出向されてから、今までと比べて、何か違いなどを感じられたことはありましたか?

チームで仕事をしている、役割分担が明確、ということをとても強く感じました。恥ずかしい話ですが、メンバーに女性がいることもあってとても和気あいあいとした雰囲気があるなと感じました。日野には女性デザイナーがいなかったので、たったそれだけでうれしかったです。着任早々、昼にみんなでクルマに分乗して、レストランのウェルカムランチで迎えていただいたことも、まさにカルチャーショックでした。日野自動車はどれだけ社会から隔離された状況で仕事しているのだろうとも感じました。

-この時点では、まだ日野自動車としての仕事のご実績がおありではなかったわけですよね?

そうなのです。それがコンプレックスでした。というのも当時、目黒にバンビー二というイタリアンレストランでクルマ好きの人が集まっていて、いろいろな会社の人と交流する場があったのですが、自分の話が語れませんでした。「日野自動車なんですか!トラック大好きなんですよ!」と話しかけて頂けるのですが、私自身はトヨタの仕事しかしたことがないのでトラックやバスのことが語れずにいました。これではいけないと思いました。

ちょうどその頃、田町にサテライトスタジオができるという話が出ていたので、手を挙げ、トヨタから帰任してそのまま田町へ行きました。それが90年2月です。

-そちらでは、どのようなお仕事をされたのですか。

田町はアドバンススタジオです。「成果を気にせず何でもいいからやってみろ」と、今の自分ではとても言えないようなことを、当時のデザイン部長から言われ、手探りでいろいろなことをやらせてもらいました。たとえば車両デザインに入る前のステージ、基礎研究のようなことにいろいろと取り組みました。たとえば大型トラックは仕事空間であると共にドライバーの生活の場でもあるので、休息空間のありたい姿や様々な建築や輸送機器のパーソナルスペースの研究が重要になります。また、ガテン系の職業の方々に突撃インタビューをして「働きがいがある瞬間はどのような時か」などをヒアリングし、そういったことをTOKYO MESSAGE という冊子をつくり、役員や社内企画部署に配布していました。

都内のスタジオのためアクセスがよいので、いろいろなイベントにも顔を出しました。日野市の本社では得ることのできない他分野の人とのつながりがあり、その出会いを広げるために田町のスタジオを使ってマンスリーレクチャーというイベントを企画しました。毎月、様々な分野の方々をお招きしてお話いただき、そのあとは簡単なパーティ。段取りは大変でしたが、今思えばとても貴重な体験だったと思います。

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日野自動車デザイン部の伝統でもあるトラック同乗調査もいろいろ出かけました。

たとえば北関東から熊本の八女市まで乗せていただいたとき、九州に入ったとたん、当時出始めていた自動車電話がかかってきて、ドライバーの方が「ひとりになれると思ってこの仕事を選んだのに、ウチのやつから電話がかかってくんだからたまんねえよ」といったナマの声は当時新鮮でした。今は携帯電話があるので当たり前の風景ですが、こうした新しいデバイスが運転環境やドライバーの意識を変えることを肌で感じ、仕事中に何時間も手袋をして運転していた人がすべての荷を降ろし、運送会社へ戻るときには手袋をはずしている姿も目の当たりにしました。

そうした動作にも気持ちの切り替えがあることや、東京から広島の三次市までトイレ休憩なしのノンストップで走るドライバーなど、驚かされました。バスでは奈良の橿原市から十津川村を経由して、和歌山の熊野までの日本最長路線バスの調査もおもしろかったです。熊野の山の中を通学で使っている小学生とドライバーとのやりとりは、親戚のおじさんのようで温かい気持ちになりました。

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こんなふうに自分たちがデザインした製品が社会で使われていることを見て、この仕事の奥深さを感じ、デザインという仕事はおもしろいと改めて感じていた時期でした。

90年代の中ごろだったように思いますが、ユニバーサルデザインの考え方が、家電業界を中心に急速に広がりを見せた時期がありました。ちょうどそのころ私はNPOのE&Cプロジェクトという活動に参加して、高齢者・障害者のための移動環境の改善を提案する活動に参加し、週末の時間などを使って様々な調査などを行っていました。

こんなことができたのも、人と人のつながりからです。様々な場所で知り合いになって話しをしていくうちに、「共用品」という考え方を知り、お互いの業務を超えて仕事とは違ったアプローチで一つの物を作り上げていくという喜びを経験できました。現在東京都のノンステップバス基準につながった当時の社内のUDガイドラインには、この時の知見が活かされています。こうした仕事へのつながり方はイレギュラーだと思いますが、「成果を気にせず気づいたことをやれ」と言ってくれた上司のおかげだと思っています。 

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-30代を田町でお過ごしになったと、日野本社へ行かれたのですね。

99年に本社に戻り、しばらく先行企画を担当していましたが、「ビッグバンプロジェクト」という社内組織を横断した活動がはじまりました。これはトラックの作り方を根本的に変えようという社長直轄プロジェクトで、私も参画するためにデザイン部を離れ、総合企画部へ異動しました。いわゆるモジュール設計への転換期だったのですが、門外漢ながら事務局を担当し、設計や製造のメンバーを集めて進めたプロジェクトで、やりがいを感じつつも、その時は大分痩せました。

この時、デザイン部を外から見ることができたことも、貴重な経験だったと思います。これを終えて再びデザイン部に戻ることになりました。

-それから室長、部長とご経験されるわけですね。

部下にはよく言っているのですが、上司を気持ちよく騙してどんどん好きなことをやって欲しいのです。もちろん大義を作ってです。理由をちゃんと作れば「これがやりたいです」というとやらせてくれる会社だと思います。そのためには人と会うことや、いろいろなことを見る事がとても大事なので、外へ出ろと言っていますが、なかなかみんな忙しくて出られないのが現実です。

先ほどお話しした社外の人たちとの活動から、ニューヨークでユニバーサルデザイン国際会議があることを知り、会社で手を挙げて行かせてもらったこともあります。だからこそ、部下がやりたいと言ったことはできるだけ叶えたい、と思っております。

-デザイン部では、直接業務とはあまり関係のない取り組みもされているとお聞きしました。

プラスチックダンボールを使って、どれだけ高く組み立てられるかとか、ゴム動力でどこまで荷物が運べるかなど、少人数のグループごとに競ったりする活動をしています。この取り組みは、あえて業務とは関係のない遊びのような要素を入れて、スタートさせました。そうすることで、アイデアがいっぱい出るのです。

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今は少し趣向を変えて、会社に提案できるような課題、たとえば、将来、本社日野工場が茨城の古河市へ移転するので日野工場の跡地利用をデザイナー目線で考える、というようなこともやっています。そんなきっかけがあると、どんどんアイデアが膨らんで自分達から進んで外へ出ていくようにもなってきました。

 

-最近の日野としての取り組みをお聞かせください。

今年、年明け早々1月15日にインドネシアで新型のトラックが立ち上がりました。現地生産で新型車を立ち上げるのは日野として初めてだったので、それなりに大変なプロジェクトでしたが、この車両は、まさに自分がこの仕事に就くきっかけとなったWHITE社のデザインと同様に、「既存のキャビン骨格を使って新ジャンルを形成する」という使命を持った企画でした。新興国をメイン市場に新しいHINOのブランドイメージを作り上げていくトラックです。これから売れていくことを祈っています。

 

-デザイナーを目指す若者にメッセージをお願いいたします。
人や色々なことに興味を持ってください。採用する側として考えることは、発想の豊かさが必要だということです。クルマだけでは偏ります。中途半端にクルマ好きなだけだと豊かな発想は出来ませんから。スケッチはきちんと練習すれば、必ずあるレベルまでは到達できます。自分が携わったクルマがラインに並んでいるのを見ることはなんとも言えない喜びがあります。頑張ってください。

-松山さんがお考えになる商業車をデザインする魅力、そして日野の目指すデザインとは何でしょうか?

やはり、働くクルマであることだと思います。社会で暮らすひとりひとりの「当たり前の生活」を支える物流や公共交通。その存在を意識することはあまりないと思います。ふだんは当たり前のように自由に選べるコンビニの商品も、大雪や台風など自然災害などで物流が滞れば、棚がガラ空きとなって初めて、当たり前の生活を支えるしくみがあることを認識するのではないでしょうか。

その当たり前を支えるしくみは「システム」ではありますが、機械・機器が支えているのではなく「人」が支えています。大切な人や荷物を決められた場所、時間通りに届ける。とても大変なことです。自分が社会を縁の下で支えているという運転者、働く人の「プライド」。日野デザインが掲げている「運転する人・働く人の気持ちを支え、高揚させるデザイン」には、こうした想いが込められています。生産財をつくっているのではありません。それだと単にツールになってしまう。働く人が使うものだからこそ、ドアを開けるときに「あぁ、今日も頑張ろう」とフッとわきあがるようなクルマを届けていきたいと思っています。

 

編集後記

皆さん、いかがでしたでしょうか。商業車を扱っている日野自動車ならではの視点を感じて頂けたのではないかと思います。余談ですが、日野オートプラザに到着すると我々の目に飛び込んできたのは…

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モニターには”歓迎”の文字があり、日野自動車の『働く人を笑顔にする』というホスピタリティ精神が見受けられました。

また、松山部長が到着するまで日野オートプラザ内を少し見学させていただきましたので、少しですがご紹介させていただきます。

 

 

これらの車が入館料無料で見学できます。わたしが夢中になって見学していると松山さんが到着され、デザイン部長の直々の解説付きで日野オートプラザを見学できるなんて、まさに贅沢なひと時を過ごさせて頂きました。

2時間に渡るロングインタビューを、大変お忙しい時期にも関わらず、快諾していただいた松山さん、本当にありがとうございました。

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