【インタビュー】現役のカーデザイナーに会ってきた!ーダイハツ工業・石崎弘文さんの場合ー
早くも第15弾を迎えたインタビューシリーズ。(過去のインタビューはこちら)よりご覧ください。
今回は、アプローズや初代オプティを皮切りに、ネイキッド、初代ムーブ、初代コペン、ミラ・イースなどダイハツなど数々の車種を世に送り出してきた石崎弘文氏にお話を伺いました。
カーデザイナーになるきっかけから、開発ストーリーやカーデザイナーを目指す方へのアドバイスをお聞きしました。
【インタビュー】現役のカーデザイナーに会ってきた!ーダイハツ工業・石崎弘文さんの場合ー
石崎 弘文(いしざき ひろふみ)=1952年、愛媛県松山市に誕生。有数の進学校として名高い愛光学園で中高を過ごす。その後、トヨタ自動車八重樫デザイナーのアドバイスにより、千葉大学工学部工業意匠学科に進学。1975年、本田技術研究所に入社し、2代目シビックやクイントなどのプロジェクトを担当。その後の81年、ダイハツ工業に転職。現在は海外本部のデザイン担当理事を務める傍ら、神戸芸術工科大学でカーデザインを教えている。写真は、愛車のコペン。奥様の郷里である瀬戸内海屋代島にて撮影されたもの。
―カーデザイナーを目指すきっかけからお聞かせください。
きっかけは、父の愛車だったコンパーノ・ベルリーナです。
まだ車がそんなに普及していない時代でしたが、近所にはファミリアやパブリカが停まっていました。
コンパーノ・ベルリーナのグリルは、ピカピカの金属で上下に美しく組まれているのに対し、他のクルマは一枚板を貼りつけただけのようなデザインで、それを見比べてみると、「なんでうちのクルマはこんなに綺麗なんだろう」と思ったのです。
それが小学校2、3年くらいのころだったと思います。
コンパーノ・ベルリーナ=ダイハツ初の乗用車。イタリアの「ヴィニャーレ」のデザインで、元々は「バン」としてデザインされたものをダイハツがベルリーナ(イタリア語でセダンのこと)に手直しをしたもの。当初は2ドアの800ccデラックスとスタンダードの2種であったが、1965年4月にオープン・モデルの「スパイダー」を追加し、同時にエンジンも1000ccに増強された。1965年5月、4ドアも追加され一応のラインアップは揃った。その後、細かい改良を重ね1967年4月には機械式ではあるが日本車で初の「フューエル・インジェクション」車である「ベルリーナ1000GT」を発売した。1968年4月、最後のマイナーチェンジをして、しばらくは1969年4月新発売の「コンソルテ ベルリーナ」と併売された。Tomoyuki Watanabe’s YOUTUBEから引用
―小学校低学年の時点で、すでにデザインの良し悪しにお気づきになれていたのですね。
幼心にそう感じていました。今でも強く印象に残っています。幼心にそう感じていましたよ。
その後、第二回日本グランプリにASTON MARTINのDB4GTザガートが出たのを見て、衝撃を受け、第三回にはダイハツが活躍し、さらに衝撃を受けました。
当時はカーデザイナーという仕事自体をまだ知らなかったので、これはレーシングカーの設計者になるしかないと思いました。
ダイハツP-3=1966年の日本グランプリで初登場したコンパーノをベースとしたマシン。1300ccの排気量ながら、アバルトシムカを抑え総合7位に。
その後、ある雑誌を読み、初めてカーデザイナーという仕事を知りました。
記事には、トヨタの八重樫さんというデザイナーが出ておられました。
これだ、と思ったのですが、四国の松山にいたので情報は殆ど無く、どうしようかと考えた結果、その雑誌社に電話をしてみました。八重樫さんの連絡先を教えてくれと。
―思い切った行動をお取りになれたのですね。
今と違って方法がなかったのです。電話をするとトヨタの住所を教えてくれたので、「カーデザイナーになりたいのですがどうしたらいいでしょう?」と相談の手紙を出しました。
しばらくして八重樫さんから返事が来ました。
封をあけてみると、カーデザイナーになるのだったら、と10校くらい学校の名前が書かれていました。
そして最後に「ちなみに私は千葉大学です」と書かれていました。これは千葉大学にいくしかないな、と思い決めたのです。
地元の愛光学園という中高一貫の学校に通っていたのですが、毎年、東大・京大・阪大に50名以上送り込むような進学校だったので、千葉大に行くというと猛反対にあいました。
東大・京大・阪大以外は認めないような空気だったので、千葉大なんか辞めとけ、と先生に言われました。
けれども、もうそのときにはカーデザイナーになると決めていたので、「先生が言うような学校ではカーデザイナーになれません。」と頑として話を聞かずに千葉大に進みました。
――そこでようやく本格的にカーデザインを学ばれたわけですね。
いいえ。千葉大に進学してもクルマのデザインは誰も教えてくれませんでした。吉岡教授という恩師がいるのですが、「広い視野のデザインを学べ」ということでスキル的なものはなにも教えてはくれませんでした。
ただ、スキル以外のデザインに関することは教えてもらえました。
ちなみに絵は、昔から好きで暇があれば色々と描いていました。
―カーデザインに関してはすべて独学なのですね。
そうですね。覚えているのは、3年の時に、トヨタに実習にいけと言われて行きました。
そこで初めてプロのデザイナーの方が描いているのを間近で見せてもらったのです。
当時トップデザイナーの内田さんという方です。
フローマスターというインクを使い、ベラム紙に綺麗に描いていく。
レンダリングですよね。私はペンで描くだけでしたので衝撃を受けました。
同時に焦りも出ました。これではマズイと。
その帰りに伊東屋に寄り、高かったですが画材を全て揃えて、それから必死に練習しました。
―転換点だったわけですね。
ですが、当時私は水泳部のキャプテンをしており、水泳のことしか頭にありませんでしたので就職するつもりはありませんでした。
大学院にでも行こうかと考えていました。
―ホンダに就職された経緯をお聞かせください。
ちょうど関東甲信越大会で優勝するかどうか、という時期で毎日練習していたときにホンダの方がわたしに会いにきました。
そのような時期だったので練習があるからと、会うのをお断りしたにもかかわらず、練習をして終わってもまだ待っていてくれました。
2時間以上ほったらかしにしても待っていてくださり、それで口説かれてしまったたわけです。こんなに熱意を持って声をかけてくれるので、行ってみようかなと思いました。
―そのような機会を『練習があるから』と断る学生は、なかなか少ないと思われるのですが。
いやいや、その時は本当に就職するつもりがなく、水泳しか見ていませんでしたので。
水泳に命をかけていました。
それでホンダを受けることになり、就職しました。
―ホンダ時代についてお聞かせください。
ホンダには7年程在籍しました。
同期は5名で、今もホンダにいらっしゃる松澤さん、宇井さん、もう退職された牧田さん、僕、そしてNORI, inc.の栗原さんです。
しょっちゅう旅行にいったりして、今でも親交があります。この業界にいると良く会います。
栗原さんと私は2輪に配属されましたが、ただ私は2輪に興味がありませんでした。
栗原さんは初めから2輪希望だったので希望通りです。
私は4輪にしてくれと頼んだのに希望が通りませんでした。
同期の松澤さんは2輪希望だったのに4輪配属で、なんでこんな酷いことをするのだと配属発表の日に辞表を出しました。
―発表後すぐにですか?希望が通らないことはよくあることではないでしょうか。
わざわざ千葉大に会いに来てくれたのに、入社した途端こんな仕打ちを受けるなんてとんでもない会社だ、とそのままの勢いで辞表を提出しました。
そうすると予想通り止められました。何事も社会勉強だから辛抱しろ、と。
ただそれでは納得できません、ということで半年後に、同じく希望の通らなかった松澤さんと配属を取り替えてもらうことになりました。これで晴れて2人とも希望通りの部署です。
2輪は半年だけだったので、あっという間でした。2輪に全く興味も免許も持っていませんでしたが、その後同時に4台も所有するくらいハマってしまいました。
宇井さんとエンデューロ2時間耐久レースに出たりもしました
仕事面でいうと、当時の上司から色々と学びました。
デザインの考え方は岩倉さん、造形については榑松さん。
このお二人から学んだことが、いまでも私の自動車作りのベースになっています。
左)1976年、5人の同期入社。狭山での工場実習にて。 右)2011年の藁塾にて再会(牧田氏欠席)
―入社されてから初めてスケッチを学ばれたのでしょうか。
当時のホンダは、いきなりクレイです。絵なんて描きません。取材が来ることになると、慌ててあとづけで絵を描いていました。
―そうだったのですか。
これこれをデザインしろ、と言われてクレイで3つくらい作って持って行くと「なんで3つもあるんや。ひとつにしろ」と言われました。
その後、2代目シビックやクイントを担当したのですが、そこで転機が訪れます。
というのも、初代のシビックはキレ味のあるデザインで良いのですが、2代目はその小気味よさが無くなりしまっています。クイントもそうです。
その辺りでダイハツからシャレードが発表され、とてもインパクトがありました。ダイハツのデザイン力は凄いなと感じたのです。
その後、偶然シャレードの開発責任者である西田取締役に会う機会があり、その時に言いました。
「シャレードは素晴らしい。私はシャレードを買おうと思う」と。
そうしたら「ホンダで充実しているか?」と仰るのです。
「いえ、してないです」と言うと、じゃあウチに来いということになりました。
―まさしくそれが転機になれたのですね。
地元四国の親のことも考えて、地元に近づきたいなとも考えていた、ちょうど色々と重なったタイミングでした。
そして、ダイハツに転職した当初は悩むこともありましたが、徐々に任せてもらえるような立場になりました。
当時は、主にミラとハイゼットしかなかったので、どんどん車種を増やそうとしている状況でした。
ダイハツは他と比べて組織が小さい分、デザイナーの想いを反映させやすいのです。
今考えると、私にとっては良い環境だったなと感じます。
軽の新規格になってからは全て担当しました。
シャレード=ダイハツ・コンソルテの後継モデルとして1977年11月に発表。当時欧州各国では、駆動方式をFFに改めた小型車が出揃い始めており、日本の各社でもそれに追従する流れが起こっていた。そのような中、初代シャレードは「5平米カー」というキャッチコピーで、従来の日本における大衆車とは異なる世界観を持って世に出ることとなった。Wikipediaより引用 シャレードは、日本の自動車史上にリッターカーというジャンルを生み出したエポックメイキングな存在。シャレードの開発ストーリーについてはこちらが詳しい
―初代オプティが、最初の代表作となれたのでしょうか。
オプティは「MOVING ART(ムービングアート)」というデザインコンセプトを掲げて、感性に訴えかける軽自動車を生み出そうという試みでした。
当時のトレンドであった合理性を軸とするミラとは対極のコンセプトで、工芸品のように手に馴染む温かさをイメージしています。
また、小さい車で重要なことは、安定して見えることだと考えています。
お椀を伏せたような安定感のあるスタイル。下端にくるようなデザインです。
あとは、どうしてもレリーフを入れたくありませんでした。
レリーフを入れずにデザインするとなると、面の張りで表現するしかありません。
初代オプティ=1992年1月デビュー。発売に先がけて、前年1991年の東京モーターショーにプロトタイプが「X-409」の名前で出展された。当時のダイハツの看板車種であったミラの上級車種として登場し、人気を博した。Wikipediaより引用
―軽は規格が決まっているため、そうなるのですね。
そうなのです。デザインしろが取れないので、張りで表現するのは非常に難しいことです。
周りには成立しないと言われました。
ただ、レリーフを入れたくありませんでした。
限られた制約の中で一番綺麗な張りを作るために、一番優秀なモデラーと組んで何度もトライし、そのモデラーの力もあってオプティのデザインは生み出されました。
そして、実はこれがのちのコペンにつながっています。
いわばオプティで挑戦したスタイルの集大成がコペンなのです。
初代オプティの頃から挑戦し続けてきたロングライフデザインを目指し、安定感や親しみ深さを表現。2002年のデビュー以降、フル生産体制が続いたことからもその人気の高さが伺える。発売から10周年記念としてシリアルナンバーを入れた10TH アニバーサリーエディションを発売。石崎さん自身も最後のコペンを手元に置いておきたいということで購入し、現在でも所有しているとのこと。右)スケッチはチーフデザイナー山本叔弘さんの手によるもの。
―難しいかと思われますが、印象深い1台をあげるとすると、どれでしょうか。
ネイキッドですね。
誤解を恐れずに言うと、軽自動車のヒエラルキーは低いですよね。
大きくて高級な車ほどヒエラルキーが高く、軽は維持費が安いから乗るんでしょ?と、思われがちです。
それを、こっちのほうが絶対にいいんだ!と言わせたい。
一種の免罪符を作るというね。
―安いから軽を選びました、ではなく心から欲しいと思った車が結果的に軽だった、という状況ですね。
そう。ネガティブな理由ではなく、ポジティブな理由で選んでもらえる軽自動車作りです。
当時、うちの商品企画サイドから「男の軽」を作ろう、ということになりました。
ただ、どういうものがいいかピンとこなかったので、色々考えていた時に、富士吉田で自衛隊の高機動車とすれ違いました。
ハマーのような軍用車です。それでピンときました。
コレを使ってむちゃくちゃに遊ぶぞ!ワックスなんてかけへんで!という軽自動車。
よくアメリカの映画でバーンと車のドアを蹴って閉めたりするシーンがありますよね。
汚れることやへこんだりすることを全く気にしない、まさにそのようなイメージです。
私もネイキッドは12年間、リアシートを取り外して自転車を入れて使っていました。
個人的にも、高級車をピカピカに磨いて乗るタイプではありません。
傷ついたら嫌だな、などという事を気にしながら乗るのは性に合わないのです。
小さいことの持つメリットや、この車にしか無い良さ。
軽自動車の中にもこんな面白いのがあるのだぞ、と。
そういう意味では、免罪符をうまく作れたのではないかと思っています。
モーターショー提案のためのモデル作成時、塗装前が一番イメージに近かったというエピソードも。塗装しないわけにはいかないので泣く泣く塗ってもらったという。右)は夏休みに、石崎が自宅で一枚だけ描いたというスケッチ。このスケッチをもとに開発が進められ、1997年のモーターショーでショーカーとしてデビュー。来場者はもとより、メディアを含め多くの支持を受け、新軽規格のサイズに全面変更し量産された。素材感を強く打ち出したスタイリングで、気軽に使える男のタフさを表現。ネイキッドというネーミングも石崎自身によるもの。
―カーデザイナーを志す方へアドバイスをお願いいたします。
建築を勉強する人は、まず過去の作品から学びますよね。
カーデザインを勉強する人は、過去から学ぶ姿勢が薄いように思います。
カーデザインも歴史の積み重ねです。白紙からは何も生み出せません。
自動車博物館に行って、素晴らしい車やダメな車を見て考えて下さい。
これはなぜ素晴らしいのか。どうやって作られたのか。
そしてダメな車はなぜそうなってしまったのか。自分ならどうするか。
ジウジアーロがデザインしたマツダのルーチェや、いすゞピアッツァなどは今見ても美しい。
昔の仕事を学ばないで明日は作れません。
――時代時代で、時を切り拓いてきた車というものが存在しますね。
そう。時を切り拓く車とゲテモノは紙一重だな、というのも私の考えです。
フィアット・ムルティプラを見て下さい。
とても個性的です。
商売としては成功しなかったかもしれませんが、私は良いと思います。
また、オートカーの記者がアルファロメオSZのことを「Ugly is Beautiful(アグリー イズ ビューティフル)」と表現していました。
車は法則が全てじゃないのだなと思わされました。
瀬戸際のデザインですが不思議と引き込まれる。
自分にはできないという意味で憧れる部分があります。
以前、エルコーレ・スパーダとプロジェクトをしていて、家に招待されたことがあります。
当時はイタリアのデザイン会社I.DE.Aのチーフデザイナーでした。
そこで彼は「ジウジアーロはパーフェクトなデザインをする。」と私に言いました。
そして、「でも人間、パーフェクトだとつまらないだろ?」とも。
Alfa Romeoに、カングーロとTZ2という2台の車があります。
カングーロは360度どこからみても何の破綻もありません。まさにパーフェクトなジウジアーロデザインです。
一方、TZ2はエルコーレ・スパーダのデザインです。
クセがあって、アグレッシブ。ともすれば野蛮と言えますが、カングーロもTZ2もどちらも感動します。
カングーロとTZ2は同じシャーシで作られています。
デザイナーが違うだけでこんなにも表現する世界が違います。
そういうことも勉強した方がいいと思います。
ちなみに、私が幼い頃に衝撃を受けたアストンマーチンDB4ザガートは、彼のデザインだということも教えてくれました。
その場で当時描いたスケッチを嬉しそうに持ってきてくれて、プレゼントしてもらい、今ではうちの家宝になっています。
エルコーレ・スパーダ=1960年代のカロッツェリア・ザガート(Zagato)黄金期から常に第一線で活躍したカーデザイナーで、ジョルジェット・ジウジアーロやマルチェロ・ガンディーニなどと共に現代の自動車デザインの基礎を作った一人。I.DE.A時代にはフィアット・ティーポやフィアット・テムプラ、ランチア・デドラ、アルファロメオ155などを手がけた。Wikipediaはこちら
左)カングーロ 右)TZ2
―石崎さんご自身は、新しいデザインやコンセプトはどうのように生み出しておられるのでしょうか。
学校の生徒にも言っているのですが、ヒントはかならず日常の中にあります。
ボーっとして見るのではなく、興味を持って目を見開いて集中して見ると、普段は何気なく見ている日常から浮かび上がってきます。
―ネイキッドの時もまさにそうですね。―
自衛隊がいるなぁとただ見過ごすのか、そうでないのかは見る側の意識次第です。
あれは、夏休みに自宅で描いた一枚のスケッチをもとに開発がスタートしています。
私はどちらかというと貯めて貯めて膨らませて描き始めるタイプです。
オプティも初代ムーブも開発初日に描いたスケッチです。
デザイナーはスケッチをたくさん描くものですが、最初に描いたスケッチが一番良いことはよくあることです。
ただし、100枚描いても出ない時もります。
そんなものなのです。
ダイハツ・タント=「しあわせ家族空間」をコンセプトに新ジャンルの軽自動車として2003年デビュー。その広さと使いやすさは若いファミリーを中心に圧倒的な支持を得て、「ママのワゴン」としてダイハツの柱となった軽自動車。車名の「tanto」とは、イタリア語で「とても広い、たくさんの」という意味。
「時は最後の審判者」
初代タントの開発の際に、林英次さんからいただいた言葉です。
林英次=1931年京都に生を享ける。LILACにて設計課長を勤めた後、ブリヂストンサイクルに入社。取締役設計部長としてオートバイや自転車、スキー、ホイールなど様々なプロジェクトを手掛ける。1981年、AXIS創立に携わり、企画部長、編集長、代表取締役専務を経てRCA名誉評議員、AXIS社友、ブリヂストンサイクル名誉顧問として現在に至る。 デザイン司南|一寸先は闇(林英次著)参考
実は初代タントは、デザインクリニックといって、一般の方にいくつかの案を見てもらい意見をもらったのですが、一番評価の悪い案を選びました。
どうしてもそれでいきたかったのでその案を選んだのです。
その時に林さんは、「良いデザインかどうかは10年経ったら決まる。そしてその選択は間違っていない」とおっしゃいました。
時は最後の審判者だと。
―そういう意味でも、過去から学ぶことは大事なことですね―
そういうことです。
絵の練習をする、絵が描ける、そんなことは当たり前です。
みんなやっているし、できて当たり前なのでそこは頑張ってください。
ですが、他のことも勉強しなくてはいけません。
数学も国語も英語も歴史も過去のデザインも、自分の能力を高めるために全て勉強する必要があります。
テレビやネットから得る知識だけではダメです。
テレビや映画はダラっとしていても見れますが、それでは身につきません。
ぼーっとネットを見ていても実際に集中しないと意味が無いのです。
この業界は絶えず変化してきました。
私が手紙を出した八重樫さんの世代から始まり、諸先輩方が創世記を作ってくれました。
そこから10数年あとの世代が私たち。
その頃の環境と今は違います。
多くの人が関わるようになって、どんどん分業が進んでいます。
一般の方には実際の開発現場を想像することは難しいでしょうが、本当に多くのプロセスが存在します。
だからこそ、俺がデザインしたんだ、と思えるものを作るには絵を描くスキルなんか当たり前なのです。
そうでないと設計者とやりあえないですよ。
デザイナー同士でもそうです。
絵で負けても、口で負けても、頭で負けてもいけないのです。
色々なことを乗り越える力を身につけるために、あらゆる能力を高める努力をする必要があります。
絵を描くのはあくまでスタートです。そこから先を見ないといけません。
コミュニケーションして議論して、説得して、納得してもらうことは絵を描くスキルだけではできません。
普通の人と同じようにやって満足していたらダメなのだ、と視座を高く持つことが大事です。
私はそう思います。
石崎さんの愛車コペンと奥様の愛車フォルクスワーゲンup!
編集後記
皆さん、いかがでしたでしょうか?
中学3年生の時点でカーグラ編集部に手紙を出し、当時トップクラスのカーデザイナーに直接コンタクトをとる行動力や、学生時代会いに来てくれた採用担当者に「練習がありますんで」と面会を拒否する意志の強さ、さらにはホンダ配属初日に辞表を提出する判断の早さは驚きを隠せませんでした。
車をデザインするということは華やかな部分にばかり目が行きがちですが、開発の中で経営者や設計者との交渉や説得など、非常にタフなプロセスを経ています。
だからこそ絵が描けるということはできて当たり前。
それ以上に、様々なことを学習し自分の能力を上げることが求められているのですね。