【前編】フェアレディZ Z32のデザイナー山下敏男さんに聞いた!驚くべき”チャンス”の引き寄せ方
1957年にアメリカで創刊され、いまや世界19カ国で発行されているアメリカの代表的なメンズファッション誌GQ。
そのGQマガジンが2010年に発表した「The Most Stylish Cars of the Past 50 Years(過去50年で最もスタイリッシュな車)」の一つに、4代目フェアレディZが選出された。
発売から20数年が経過してもなお、世界的に評価される車はどのようなデザイナーによって生み出されたのだろうか。
今回のインタビューは、その生みの親である山下敏男氏に、デザイナーになったいきさつから開発秘話、そしてこれからカーデザイナーを目指す方へのメッセージなどをお伺いした。
フェアレディZ・Z32型系 (1989―2000) = スタイル、パフォーマンスを始めとして、完璧なスーパースポーツカーを目指したフェアレディZの4代目として登場。キャッチコピーは『スポーツカーに乗ろうと思う』。バブル景気の絶頂期と崩壊、その後の日産の経営悪化のため10年以上という長期に渡り生産されたモデルである。(Wikipediaより引用) 今なお日本だけでなく海外でも多くのファンを持つ1台として知られる。
【前編】フェアレディZ Z32のデザイナー山下敏男さんに聞いた!驚くべき”チャンス”の引き寄せ方
山下敏男(やました としお) = 1949年、福岡に生まれる。福岡市立博多工業高校工芸科卒業後の1968年、日産自動車にデザイナーとして入社。パーツデザインからスタートし、2代目バイオレットを皮切りに、様々なプロジェクトに携わる。フェアレディーZ Z32のデザインを代表に、シルビア240SX、スカイラインGT−R、インフィニティG35、Q45など、車本来の魅力を伝える数々の車種を手がけた。2008年には首都大学東京の教授に就任し、各方面でカーデザインの魅力を伝えながら、多くの学生にトランスポーテーションデザインを教えている。
―そもそも、カーデザイナーを目指すきっかけは何だったのでしょうか?
もともと建築家になりたかったのです。
博多の田舎で生まれ育ち、学生時代のころになっても、周りにはまだそんなにクルマが普及していませんでした。
クルマには特に興味はありませんでした。
高校の願書にも第一希望が建築科、第二志望で工芸科と書きました。
ですが、合格通知を見てみると第二志望の工芸科で通っていました。
これは父親にこっぴどく怒られるな、と思いながら恐る恐る報告したところ、
「あぁ、俺が学校に電話して第一志望を工芸科に変えといたんだよ」と言うのです。
「お前は体が小さいから建築家になると職人にナメられる。工芸の方がいいに決まってる」と。
何を勝手に変えているのだと当然思いましたが、その時は志望先を変えられていたことよりも、怒られなくて良かったという気持ちの方が大きかったです。
高校では、絵を描いたり家具を作ったり、とそんなことをしていました。
3年生になるとすぐ、先生から「日産から就職の募集が来ているんだが、誰か受けたい人はいるか?」と告げられました。
それから10年くらいすると、大学にデザイン系の学部が増えたこともあり、高卒の枠はなくなってしまいましたが、当時は工業高校にも募集が来ていました。
通っていた高校では、4年前に1人だけ日産に受かった先輩がいたのですが、それ以降は3年連続で落ちていたので、その時は誰も手を挙げませんでした。
その後、先生から私とS君が呼び出され、どちらかが日産を受けてみなさい、ということになりました。
S君は成績が1番。私は6、7番目くらいだったと思います。
S君は、親に相談してみると「九州からでることは許さない」と反対されたみたいなのです。
そこで私が日産を受けることになったのですが、先生は彫刻が専門だし、私はクルマに興味があるわけでも無いのでどうやっていいか全く検討がつきません。
とりあえずポートフォリオを作れ、ということでアイロンとかポット、炊飯器などをデッサンして持って行きました。
採用試験の前日に、日産会館というところに受験者が集められました。
その時に周りの学生がどんな作品を持ってきたのか、大体分かりました。
皆A0サイズの大きなパネルに綺麗にまとめていましたが、私だけ画用紙をクルクル巻いて小脇に抱えるというスタイルでした。
作品を見てもレベルが違い、夜中に逃げて帰ろうかなと本気で思いました。
これは落ちたな、と思っていたところ、なぜか受かりました。
当時は、性格判断とデッサンと面接だけでした。
そう、それくらいの時からです。自動車会社に入るのだからしっかり車を見ておこう、と思いつき、初代サニーのクーペを見に行きました。
その時に、初めてクルマってカッコイイな、と思いました。
特にサニークーペのリアビューに、かっこよさを感じました。
田舎でしたがビートルなどがぽつぽつ走っており見かけていましたが、クルマをデザインする対象として見たことがありませんでした。
その頃はアメ車に興味がありました。カタログもたくさんありました。
ダッジ チャージャー、マスタングなど。あとはピニンファリーナのフェラーリ。
すごくカッコイイな、こんなのやってみたいなと初めて思いました。
サニー(SUNNY )は、日産自動車が1966年から2004年まで製造・販売していた自動車。車名の由来は「太陽光」や「晴れた天候」を表す英単語「Sunny」(Wikipediaより引用)
――入社後についてお聞かせください。
高卒で入社したので、やらせてもらえるデザインはパーツだけでした。
フルサイズのデザインは、すべて大卒デザイナーの担当でした。
すると高卒組はみるみるうちに辞めていきました。
「パーツ以外はやらせてもらえないから辞めたほうがいいよ」と、先輩デザイナーから言われたこともありました。
僕は図面を早く描くことは得意でしたが、クルマのスケッチはとてもヘタでした。
パースは滅茶苦茶でしたし、入社して初めてパステルを触ったので、パステルの使い方すらもまったく分からない状態でした。
誰にも教えてもらったことが無かったのです。
「なんで山下がウチに入社できたのか分からん」「誰が山下を入れたんだっけ?」という話になっていました。
仕事が終わって寮に戻ってから、スケッチの練習をしていました。
パーツ以外のデザインができる保証など全くありませんでしたが、そのレベルのままだとそれこそチャンスすら巡ってきませんから、とにかく必死でした。
描いたスケッチを、同じ部屋の先輩に見せると「タイヤはここじゃないだろ」と半分呆れながらも教えてくれました。
でも難しいのです。「タイヤはもっと右だろ」と言われても、次にまた新しいクルマを描くとどこにタイヤを描いていいか分かりません。
ひと通りダメ出しをされて、そこからまた何枚も描いてという繰り返しでした。
当時の上司からも、描き方からデザイン理論まで教えてもらいましたね。
そして周りはデザイナーだらけでしたので、うまい人の描いているところを横目で見て盗みました。
そういった環境だったのでメキメキと上達することができました。
自分一人だとそうはいかなかったことでしょう。
当時の先輩や上司には感謝しています。
またカースタイリング誌を見て、自分なりに研究していました。
―パーツ以外のデザインをしたきっかけは何だったのでしょうか。
それはよく覚えています。裏技を使いましたので。
当時のわたしは、ひたすらパーツの仕事ばかりです。その日はラジエーターグリルをデザインしていたと思います。
ただ黙って待っていても、パーツ以外の仕事が来ないと分かっていましたから、どうやってチャンスを引き寄せるかいつも考えていました。
そのような時、ふと横を見ると、2代目シルビアのプロジェクトメンバーが集まってアイデアスケッチをしていました。
スケッチをしては、どんどん壁に貼っているのです。壁一面が皆のスケッチで埋まっていました。
これだ!と思いました。
自分のスケッチに自信があった訳ではないですが、まずはとにかく皆に見てもらいたかったのです。
勤務時間中は、ラジエーターグリルのデザインをしなければならないので、寮に帰ってから皆と同じサイズでスケッチを描き、朝早く会社に行ってこっそり壁に10枚くらい貼りました。
―勝手にされたのですか。
こうでもしないとチャンスはやってきませんから。
その日も私はラジエーターグリルのデザインをしながら、スケッチ検討会の様子を伺っていました。
壁に貼られたスケッチの中から上司がいいものを選んでいくのですが、
「これいいね。誰が描いたの?」と聞いても、誰も手を上げませんでした。
10案くらい選ばれている中で、私のデザインしたスケッチが3案くらい入っていました。
「私が描きました」と、いきなり横から手をあげたので、みんな「えっ!」て驚きました。
そして、検討会に入ることになり、私がデザインしたものも、そのまま選ばれて1/5サイズのスケッチまで描きました。
もちろん私の名前は伏されていましたが、カースタイリング誌にも掲載されたのですよ。
初めて自分が描いたスケッチが載ったということで嬉しかったことを覚えています。
それをきっかけに、山下って絵うまいんだね、と周りに評価されだし、私のやったパーツデザインにも注目してくれるようになりました。
―すごいですね。思いもつかないことをされておりますね。
常々、人と違うことをやろうと考えていました。
スケッチを壁に並べて貼った時に、少しでも見てもらえるように背景を真っ赤に塗りつぶしたり。
とにかく考えられることは行動に移しました。
大卒で来ている人は、プロジェクトに入ると必ず1案持たせてもらえます。
わたしは高卒なので、周りからあたま2つ抜けたデザインをしないと選ばれないと思っていました。
また、父親が水戸黄門を見て「いつも同じ展開を見て何が楽しいんだよ」と常々言っていたので、新しいことを期待するという血が私の中にも流れているのかもしれません。
バイオレットA10型
入社5年目で結婚をし、新婚旅行の報告にいくと、「帰ってきたらショーカーかA10のバイオレットを担当させてやる」と上司が言ってくれました。
バイオレットではわたしがメインではないので、本プロジェクトに入ればすぐに落とされるだろうなと思ったので、あまり邪魔の入らなさそうなショーカーに決めて、担当することになりました。
フルサイズのショーカーを、全て自分でやったのでとてもいい経験になりました。
そのショーカーの仕事を終えると、バイオレットのプロジェクトが焦げ付いていて進んでいませんでした。
それもやりたいなぁと思いデザインしたところ、スケッチもモデルもウィナーになりました。
しかしながら、それはわたしの力というよりも、大塚宗三郎さんという日本でも稀に見る優秀なクレイモデラーさんが付いてくれたことが大きかったと思っています。
「山下、何としてもこの案通そうぜ」って言ってくれたのです。「お前のやりたいことを言え、あとは俺が作る!」という感じでした。
ああしよう、こうしようと作戦を練り、これぞ二人三脚という感じで進めていけたのです。
凄く優秀な方で、大塚さんには今でも感謝の気持ちしかありません。
今の私があるのも、彼がいてくれたからこそだと思っています。
それが24、25歳のときでした。
周りは30歳を超えるデザイナーばかりなので、みんなわたしのことなど気にも留めていませんでした。
ウィナーになったはずなのに、落ちた方のデザイナーがその後の生産展開を担当することになり、私がパーツにまわされました。
―むごい仕打ちでしたね。
そうすると、デザインがどんどん私の案から離れて、その先輩の案に寄っていってしまいました。
それを見かねた上司が、その先輩デザイナーを外したことで、私が担当することができました。
通常、デザインで2〜3ヶ月、その後の生産展開で3ヶ月くらいかかるのですが、その先輩デザイナーからわたしに変わった時には、あと1ヶ月半ぐらいしか時間が残っていませんでした。
最初のプロジェクトだったのですが、100パーセント満足がいったかというと…未だにあのバイオレットはもう一度やりたいなぁと思います。
しかし、それが世の中に出た時は今でも覚えています。
「デザイナーっていい仕事だなぁ」と心の底から思いました。
その後は、順調に進み色々やりました。
―山下さんはセドリック430もデザインなされたのですよね。
はい。430のワゴンと4ドアハードトップを担当しました。
はじめにワゴンを担当し、スケジュールは2ヶ月ありましたが、承認まで1ヶ月で終わらせました。
デザイン自体は2週間。とても順調な時期だったということでしょう。
ルーフ後端が上がっているのが特徴的なのですが、「ここで麻雀しよう」なんてコンセプト立てて作っていました。
その後に4ドアハードトップも担当させてもらいました。
よく見ると分かるのですが、リアウィンドウがパキッと折れています。
これは最初にショーカーをやったときに考えたアイディアです。
熱線を入れて曲げると綺麗に曲がることが分かっていたので、その技術を使いました。
周りと同じことをやっていてもダメだと強く思っていたので、どんなことでも一工夫するクセがついていたのです。
セドリックでは、このリアガラスの開発ということで社長賞をもらいました。
カースタイリング第28号では「ニッサン セドリック|グロリア 好調の5世代」として15ページにも渡って特集・解説されている。写真は山下さんが描いたワゴンのスケッチ。
編集後記
プロジェクトメンバーでもないにもかかわらず、スケッチを勝手に貼って自ら道を切り拓いた山下さん。
今までカーデザイナーの方に10名以上インタビューをしてきましたが、何かをやり遂げた方には、必ずターニングポイントとなる行動があるように思います。
やりたいことが明確であれば、それを実現させるためのありとあらゆる方法を考え、行動に移してみる。
すると、そういう人の元へチャンスが訪れるのかもしれません。
山下さんはこの後、フェアレディZをはじめ、R34スカイラインやシルビア240SXなど様々な車種を手がけ、アメリカに行くことになるのですが、前編はここまでとなります。
カーデザイナーを目指す方へのメッセージなど、後編もぜひお読みください。
【後編】フェアレディZ Z32のデザイナー山下敏男さんに聞いた!驚くべき”チャンス”の引き寄せ方