カーデザインが原点 −新しいキャリアへ Pratim Duttaさん−
こんにちは、Car Design Academyの橋本です。
今回のインタビューでは、今世紀最大の成長国と言われているインドでカーデザイナーになった、デュッタさん(Pratim Dutta) の話を聞いてきました。インド国籍で、日本滞在が通算10年目というデュッタさん。
最初は、インド最大の自動車会社のマルチ・スズキで雇用され、インド人で初めて、同社でクルマのデザインをしました。その後、その実績を買われ、タタ自動車のデザイン子会社に引き抜かれます。
そして、タタ自動車では、ナノという世界で最も安いクルマの開発を、デザイナーチームの一人として手がけました。ナノは、インドの中流階級にターゲットユーザーを求め、その低価格で世界中をあっと言わせます。その衝撃的な低価格は、新車でたった30万円。
デザイン学校での勉強の仕方や、マルチスズキやタタ自動車での話もたくさんお聞きしてきました。
デザイナーは自分のデザインを売らなければなりません。もし自分のデザインが売れなかったら、彼のデザインが現実に商品化されることは難しいです。
Dutta Pratin(プラティム・デュッタ) = インド出身。1989年に大学の数学科とポリマー技術を専攻・卒業したあと、ポリマーエンジニアとして就職。三年後にデザインを勉強するために、アーメダバッドにある美術大学National Institute of Design (NID)に入学し、デザインを学ぶ。卒業後、インド最大の自動車会社のマルチ・スズキに入社。 実績が買われタタ自動車のデザイン子会社Tata ELXSIに引き抜かれたあと、現在は、ダッソー・システムズ株式会社で、デザイン・ソリューションの営業部の上級職として、日本のクライエントとフランス本社の橋渡しをしている。
マルチ・スズキ = スズキ株式会社の子会社。インド市場の約50%を占めている。南アジア最大の自動車メーカーで、今年2015年5月には、四輪車生産累計1500万台を達成している。
ダッソー・システムズ = フランスで最大、ヨーロッパでも二番目のソフトウェアの企業。製品としては、3D-CADで有名だが、それ以外にも、PLM(プロダクトライフサイクル)を提唱して、積極的にM&Aを実施して製品の拡充をしている。
タタ自動車 = 商用車を含めるとインドで最大の自動車会社。商用車のシェアは6割近くを占めている。タタグループという財閥の自動車部門で、海外展開も活発で、イギリスのジャガー・ランドローバーや、韓国の大宇自動車を傘下に収めているインドでも有数の企業の一つ。
普通の日本人ですと、たいてい一つの会社の中での終身雇用を前提としたキャリアの話になりますが、デュッタさんは、全く違いました。最初に勤めたマルチ・スズキでは、インドから日本に赴任して、また三年後にインドに戻り、マルチ・スズキのデザイン部を立ち上げます。
マルチ・スズキに入社して7年目の2003年、インドの財閥系の自動車会社のタタ自動車に引き抜かれることになります。ちょうど、タタ自動車がナノという小型自動車の開発生産に力を入れ始めた時です。
タタ自動車は、マルチ・スズキ時代に、デュッタさんが手がけた小型車アルトの開発について高く評価していました。ナノプロジェクト開発後の2010年、デュッタさんはデザインコンサルタント会社、Tata Elxsiの日本子会社への赴任を命じられます。
その3年後、世界有数の3Dメーカー、ダッソーシステムズの日本法人に転職。現在、数多くの日本人顧客のビジネスに携わっています。
カーデザイナーを目指したきっかけを教えて下さい
実はもともと、戦闘機のパイロットになりたかったんです。ですが、体力面に不安があったのでそちらは諦めました。現在では、パイロットになれなかった事について、全く悔やんではいません。その当時、わたしはまだカーデザイナーという職種自体を知らず、大学では数学を専攻していました。もともとスケッチをする事、車や飛行機の絵を描く事が好きでしたが、まさか自分がデザイナーになるなんて思ってもいませんでした。
ところが、エンジニアリング企業で働いていた時に、「これをデザインしてみたらどう?」と話を持ちかけられ、インダストリアルデザインに興味を持ちはじめます。その時に自分に足りない物がデザインである、という事を認識しました。それからデザインの勉強を始めました。
National Institute of Design (NID)ではどんな事を学びましたか?
当時働いてた会社に、いわゆるプロのデザイナーと呼ばれていた人たちがいましたが、彼らの仕事を見て、わたしもプロのデザイナーになりたいと思いました。3年間貯金をして、NIDという美術大学に入学しました。
当時は今と違い、インドにはNIDを含めて、美術大学がたった二校しかなく、もう一校がIndia Institute of TechnologyにあったIDCという美術大学でした。
なぜ私がNIDを選んだのか?というと、もう一つ学校があるという事を知らなかったからです。嬉しかったのは、NIDには、授業で期末とか中間試験がなかった事。それと、立地が、文化豊かな特徴のある都市にあったという事ですね。
NIDは、“インドとは何か?”ということを追求していました。町には、インドで唯一の宇宙開発施設であるサラバイ・スペースセンターがあります。アーメダバードは、まさに、インドの伝統と革新が融合した都市なんです。
(From the web site of Sarabhai Space Center.)
NIDで初めてカーデザイナーの存在を知り、興味を持ちました。授業で役にたったのが、生徒は陪審員制によるプレゼンテーションを行わなければならなかった事です。とても良い経験になりました。陪審員制では、大学の講師陣や学生、全く知らない人ですら、誰でもそのプレゼンを見て意見を言う事ができます。卒業を控えた生徒によるプレゼンだけは公開されないのですが、その他のプレゼンは、全て公開され批評にさらされます。ある時のプレゼンでわたしは恩師から、「もっと寛容になりなさい。最初から拒絶することはいけないことです。」と言われました。
ダッソー・システムズという3Dを扱う会社で働いている私がこんな事を言うと不思議に思うかもしれませんが、学生のうちは、デジタルテクノロジーを使わずに、筆やペンなどの旧来の画材を使ったアナログスケッチの練習をしたほうが良いと思います。
社会へ出るとアナログスケッチを学ぶ時間が、無くなってしまうのが現実です。素晴らしいコンピュータースキルを持っているからといって、必ずしも、スケッチが描けるという訳ではありません。しかし、素晴らしいアナログ技術があると、デジタル技術が、より身につくのです。初心者や学生のうちにしか、アナログ技術を学ぶことができないと言っても過言ではありません。
NIDに入る前から絵を描く事が好きでしたが、入学してからの最初の6ヶ月はスケッチ、モデル作成、グラフィックだけをみっちり学びます。その内の最初の1ヶ月は直線、曲線、円、楕円、円柱、四角形などを描く練習だけ。
入学当時、わたしにはデザインのスキルが全くありませんでした。なぜ受かったのか分かりません。他の受験生達みたいに、ポートフォリオの準備をしていませんでしたしね。入試は複数の試験官の前で、アルミニウムのロウソク立てを作るように指示されました。技術がどれくらいあるのかが合格の基準ではなく、受験生がどのように考え、振る舞い、どのように物事を受け入れようとしているのかを、試験官は見ていたのだと思います。
デザイナーには二つの事が要求されています。一つはスキルで、もう一つは広く学ぶ姿勢です。ある試験官は私に、もっとオープンな心で臨みなさいと言いました。NIDには、生徒はより物事を広い角度で捉える事で、全ての事象をより良く受け止める事ができる、という理念がありました。
また、NIDではスポンサーを自分で見つけてこないと、卒業する事ができません。卒業の半年前に、生徒たちはスポンサーになってくれる企業や会社を探しに行きます。これがとっても大変なんですよ。私は学位を取るための制作課題でトラクターのデザインをしたのですが、たまたま、その会社がスポンサーになってくれたので、とてもラッキーでした。おまけに卒業制作の費用までも面倒をみてくれました。
マルチ・スズキではどのような仕事をされていたんですか?
卒業してから約1年後にマルチ・スズキに入社し、1999年に日本のスズキに赴任しました。その時は、日本には2年間滞在しました。それからインドへ戻り、スズキにとっては海外初となる、スズキ・デザイン・スタジオの設立に専念しました。入社当時、会社にはデザインスタジオなんて無く、大抵の人はデザインについて全くの無知でした。
マルチ・スズキでは全てがスズキから来るデザインに沿って、組み立てるだけの仕事でした。入社当時、わたしの仕事はありませんでした。ただ車のスケッチをして過ごす日々。それでもその当時は良かったです。だって物理的なデザインスタジオ自体も部署も無いんですから。他の従業員は、スケッチをしているわたしを見て、「こいつは、いったい、何をしているんだ?」という目で見ていました(笑)
多くのインド人はマルチ・スズキが日本の企業だとは知りません。
インドではマルチ・スズキとは言わずに、マルチとだけで呼んでいます。GMやフォード、ホンダやフォルクスワーゲンにBMWなどの海外ブランドは外資系自動車会社という認識ですが、マルチ・スズキはまるでインドの会社のように普及している現状です。きっと誰も外資系企業から、クルマを買っているという認識はないでしょうね。
マルチで働いてみてどうでしたか?
十分な設備がなかったので、すぐには生産に繋がるような車のデザインをする事が出来ませんでした。
一ヶ月に一度、生産ラインで働く従業員や技術サポートチームを呼んで勉強会を持ちました。又、経営側の人たちとも話し合いました。他の部署で働く人たちとの意見交換も経営方針の一部だったんです。そこで、「何で君はもっとデザインについて話さないんだ?」と、質問が飛んできた事もありました。
従業員達はマルチをただの組立企業としか思っていなかったので、この勉強会の取り組みは、会社で何が起きていて、何をする会社なのか、従業員たちが知る良い機会になりました。とにかく、従業員たちのほとんどが、「誰かが車のデザインをしなければならない」という事すらも知らなかったんですから。
最初に、日本へ行く事ができていれば、わたしはもっと楽に事を進められていたかもしれません。日本のスズキでなんとかして、それをマルチ・スズキに流すようにすれば、インド側の経営側も、もっと深刻に考えたのでしょう。それで、会社は私にスズキへの赴任を命じました。インドでやるよりも日本で実習を積まさせることを考えたのは、頭脳的な戦略だったと思います。
私はインドでデザインの仕事をしたかったんです。日本では、私はたくさんいるデザイナーの一人でしかありませんが、インドでは違います。そこで、会社に対して、インドでデザインスタジオを作りたいと提案しました。幸運にも、提案は受理されたので、晴れてインドへ戻り、土地を購入し、デザインなど必要なものを揃えました。
インドのマルチへ戻ってから2003年にタタへ転職するまでは、たった一人でデザイン制作をしていました。その頃手がけたのが、スズキ・アルトのマイナーチェンジです。アルトのベースは崩さずに、ボンネットやフェンダー、インテリアと後部ドアのデザインを担当しました。デザインからクレイモデルまで全て私一人でやらなければなりませんでした。型が作られ、プロトタイプができた時は、嬉しかったです。
インドではアルトの事をゼン(ZEN)と呼んでいました。新型ゼンは私が担当した初めてのデザインです。
外野からは「これするな、あれするな、こうしろ、ああしろ!」と散々言われました。例えば、もしバンパーを変更するなら、空力が影響を受けます。そうなると空力の実験をしなければならないので、彼らの手間が増える訳です。結局は、デザイン、エンジニア、パフォーマンスの各グループの妥協だったのです。その頃、私はもっと色んなプロジェクトを進行させてみたいと考えるようになりました。それが動機となって、タタグループのコンサルティング子会社Tata Elxsiに転職したのです。その会社は、私にナノ開発プロジェクトへ参加するように命じました。
Zen:スズキのインドにおける生産販売子会社であるマルチスズキから発売された5ドアハッチバック。1993年初代発売以来、絶大なる人気を誇る。車名であるZENは、Zero Engine Noise(ゼロ・エンジン・ノイズ)を表しており、また日本語のZen(全)、「完全」という意味からも来ている。2003年にモデルチェンジし、2006年にこのタイプの生産は終了した。
タタでの仕事についてお話を聞かせてください
タタは、元々はトラックなどの商業車を生産販売している会社で、当時は、乗用車には精通していませんでした。タタの社長は量産できる乗用車の開発をしたいと考えていたのです。そして、事故が多いのにも関わらず、たくさんの人々がバイクに乗っているのを何とかしたいと考え、そういったバイクを乗っている人たちのために、身体を保護できるクルマを提供したいと思ったのがナノのコンセプトの原点です。
インドでは、バイクは小回りがきく上に速く移動ができるのでとても便利なのです。バイクを購入する人々のほとんどは、クルマを買う余裕がありません。加えて、インドは大きな都市以外は交通の便が悪いので、人々はよくバイクを使います。
さらに、寒暖の差が激しい地方があります。ヒマラヤ山脈や中部の砂漠、南部はとても暑いです。最近の熱波で多数の死者が出たことについては、日本でも報じられて、みなさんご存知かと思います。その様な気温の中でバイクを運転するのはとても大変です。だからこそタタの社長は小型の経済的な乗用車が必要だと感じたのです。
私がタタへ入社した時、会社は小型車開発のために、たくさんの人手を必要としていました。わたしは、インドの小型自動車市場の先頭に立つマルチ・スズキでの経歴が買われたのだと思います。ナノのデザイン開発中、チーフデザイナーと共に仕事をしていました。チーフデザイナーは、イタリアのIDEA Instituteという会社で働いていました。
タタ自動車のNano,発売当初、その圧倒的な低価格で人気を集めたが、最近は売り上げが低迷している。
ほとんどのデザイナーたちはデザイナーというよりはエンジニアでしたが、タタはデザインの重要性に着目した数少ない企業のうちの一つです。多くの企業がデザインを手がけていますが、社内にデザイン部門を持っている企業は少ないです。マルチも持っていますが、タタはそれよりももっと早くから始めていました。
タタはデザインに重点を置いている企業ではありますが、とても生産志向です。その当時から、デザインの重要性を理解し社内にもデザイン部門を設けていましたが、外部のIDEA Instituteにデザインの発注をしていました。デザイン文化的には、インドの業界内ではトップレベルだと思います。
タタが大企業となってからは、よりデザインの重要性に敏感になっています。インドの他の自動車会社と比べて、一線を画しているといっても過言ではありません。マヒンドラ&マヒンドラというインドの大手の自動車会社も、デザインをとても大事にしてよくやっていますが、実際のデザインを見ると、タタには匹敵しません。日産ルノーと組んだアショック・レイランドというという会社も、デザインに力を入れてきています。まだまだインドのデザインは学習段階にありますが、インドでデザインされたクルマが国際舞台で見るようになるのは時間の問題でしょう。10年や15年では、デザインの文化はできません。しかし、そういった意味でも、タタは、インドの会社の中では、抜きんでていると思います。
ナノプロジェクト完了後、私はデザインのコンサルティング会社Tata Elxsiの日本支社で働くため、日本へ戻ってきました。そこでのわたしの仕事は、インドにおける日本の企業へのコンサルティング業務を行う事です。
当時、たくさんの日本企業がインドで生産を始めていました。リーマンショック後、海外の企業はインドを有望市場とみなし、現地での生産を始めました。しかし、海外企業は市場がどんなモノを欲しているから分からず、当初は日本でデザインをした家電を中国で作っていました。品質もデザインも良いのですが、「この製品、すごく良いよ」と評判でも、次第に人々は買わなくなるような事もあるのです。
日本の企業は、私たちTata Elxsiに、インドではどの様なモノ(クルマだけではなく、電気製品)が良く、どのように作るべきかという調査を発注するようになりました。インドの顧客が何を求めているのか、を調査したいのです。このようなコンサルティングでは、状況調査、民俗的な研究、フィールドリサーチ、ユーザーリサーチをしていました。それと同時に、新しく開発する自動車がインドでも受け入れられるかどうかについての、デザインクリニックも行っていました。デザインコンサルタントして、日本の大手の自動車会社だけでなく、色々な企業のお仕事をさせて頂きました。
データが収集され、大容量のデーターベースに蓄積されます。例えば、同じ車が別な車に見えるほど、日本の夏の朝日とインドの朝日の光は違います。同じクルマでも、受ける印象は違ってくるのです。この様な事はデータからは読み取る事ができません。あなた自身が実際に体験したり、見ないと分からない事です。しかし、デザイナーはその点を理解していなければなりません。
データの中には色々な情報が詰まっていますが、データが多くなると見分けるのが大変です。
例えば、私が初めてデザインを手がけた時、インドのSUV車について調査しました。
インドの人は、アルミニウムの小袋に入った噛みタバコを買って、その残りの入った小袋をエアコンのグリルに差し込むんです。それを見かけて、ほとんどの車に小さなモノを置くスペースがない事に気づきました。
こういう事って、データからは読み取れないんですよね。ですから、デザイナーはこういった事を観察する事も必要です。アメリカのAppleでは業務の中にデータ収集が含まれていません。各々のデザイナーが、もし必要だと思ったらやります。それが、アップルの文化です。一方で、日本の企業は膨大な量のデータ収集を要求します。それが正しいかどうかは分かりませんが、デザイナー自身が調査をしているのか、していないのかが分かりません。デザイナーは、注意深い観察者でなくてはいけません。
なぜ近年ナノの販売台数は落ち込んでいるのでしょう?
タタについて語る立場ではありませんが、私が思うに、マーケティング戦略の失敗だと思います。ナノが発売された当初とても良いスタートを切ったように思います。タタは中所得者の支持を獲得する事に成功しました。
しかし、同時にそれはナノが廉価だというイメージを消費者に広く知らしめた事になりました。インドで車を所有する事は一種のステータスです。もし安価な車を買おうものなら、生活がうまくいっていない、という風にみなされてしまいます。そのイメージがナノに付随してしまったんだと思います。だから販売台数も激減しています。しかし、タタはアップグレード仕様のセダンにシフトしてきています。最近も、新型モデルが発売されました。時間がたつと、変化が出てくると思います。
(From the web site of carwale.)
タタ自動車のZest Revortonは、1193CCのガソリン車で、価格は、INR4,86,000ルピー。ドルに直すと、7500ドル。一方のナノは、2,04,000ルピー(3150ドル)。6月9日付のForbsによると、Zestと5ドアハッチバックのBoltには、販売不振に打ち勝つためタタモーターズの新デザインの両車を導入しました。このデザインは2013年に、「ホリゾンネクスト」と命名されます。タタは、前年度に比べ、今年度(4・5月)乗用自動車売上高が44%上昇したところからスタート。ナノの発売当初のブームと最近の落ち込みは、カーデザイナーから見ると、大変面白いトピックで、これについては、また別の機会に詳しく特集してみたいと思います。当初の顧客目標設定は正しかったかもしれませんが、時間が経つにつれて、顧客のナノに対する意識に大きな変化が生じたのです。
日本での仕事はいかがでしたか?
1990年代に初めて日本へ来た当時、私はマネージャーに「業務が終わるまで帰るな。」と指示されました。一晩中スタジオにこもり、翌日「終わりました。」と伝えると、「こんな物作れと言ったか?もう一度やり直せ!」と私が一晩かけて作ったモノをその場で壊された事がありました。とっても辛かったですが、今思うと、その頃たくさんの事を学べたので、ありがたかったです。
正直なところ、日本人は家族やプライベートの時間をおろそかにしていると思います。残業のしすぎです。そして、残業自体、効率の良い事に思えません。10時間だらだらやるよりも、5時間きっちり集中して仕事をしたほうが良いように思えるんです。
日本の人々は、海外の人たちとやり取りをする時、とても緊張します。私の日本人の印象は、海外ビジネスをたくさん手がけているのにも関わらず、海外企業とのビジネスを知らなさ過ぎるように思います。日本人は物を作る事に長けていますが、海外の人々の心をつかむ事は苦手のようですね。
日本は最後まで諦めずに製品を開発する、素晴らしい国です。しかし、ゼロから作り出す事が苦手ですね。もしそれが問題をたくさんはらんでいたなら、きっとすぐに諦めるでしょう。より楽なほうへ進む傾向にあるように思います。これは、諦めないで開発することとは、矛盾するのですが。
そして、長い会議。3時間も会議をして何も結果が出ない事に、とてもびっくりしました。今では、慣れっこになってしまっています。(笑)
日本は組織力がとても強いです。もしそのうちの一人が抜けたとしても、組織は影響を受ける事がありません。インドやヨーロッパの企業もその辺りは日本から学んで欲しい点です。逆に日本人はもう少し気を緩めてもいいような気がします。
カーデザインからダッソー・システムズ株式会社のソリューション設計へ
タタElxsiを離れ、2013年にヨーロッパのソフトウェア会社ダッソー・システムズの日本支社へ入社することになります。
名前を明かすわけにはいきませんがと断った上で、クライエントが自動車メーカーに限らず、家電業界、エアロスペースやパッケージのデザイン製造会社など様々な分野に及んでいると説明してくれました。彼はクライアントであるデザイナーと、本社、プログラマー、ソリューションのスペシャリスト達とをつなぐ仕事をしています。
簡単な例をあげて説明してくれました。例えばお客様がワインボトルのラベルをデザインする時に、3Dシステムでボトルの質感、用紙、デザイン(サイズ、位置、色、デザイン自体)を表現するのだそうです。3Dでシュミレーションする事で、どのように完成品が見えるか、細部までリアルに表現できるとの事です。
現在カーデザインを学んでいる人たちへメッセージをお願いします
まず、学生のうちにアナログ方式の技術を磨き直して下さい。一度卒業してしまうと、スケッチ技術を磨く時間がありません。次に、デジタルソフトウェアは最近そんなに高くない値段で買えるので、習得して下さい。更に重要な事は、カーデザインだけに取り組まないようにする事です。美術館へ行ったり、建造物を見たり、他の人の作品を見てみて下さい。芸術作品を見る事で、より感性が豊かになります。印象派の絵画が、遠くから見たらオレンジなのに、近くで見ると赤と黄色を使っている事に気づくようになるでしょう。造形、彫刻や建造物、芸術に歴史などあらゆる物に興味を持つようにして下さい。
後記
インタビューの当日、東京のウェスティンホテルではダッソー・システムズの大規模なプレゼンテーションイベントが催されていました。丸一日を使ったプログラムに、恐らく千人を超えるクライアントさん達が参加していて、とうてい私には想像できなかった世界がそこにありました。その中で、デュッタさんは色々な方達とお話をされており、とても忙しくしておられました。
二十年以上に及ぶカーデザインのバックグラウンドをお持ちのデュッタさん。インド国籍の彼が、現在、日本で、フランスの世界的3Dソフトウェアの会社に努め、クライエントの日本人デザイナーとフランス本社のソリューション部隊とを繋げています。
カーデザインをしていた時に培ったデザインの基本を考えると、彼の現在に至るまでが、私にはとても自然な進化のように思えます。
カーデザインに始まり、デザインコンサルティング、デザインソリューションへ。カーデザインをした経験があるからこそ、3Dビジネスの世界でプロとしてやっていくのも可能な事でしょう。
インタビューの中で、繰り返しカーデザイナーへ目指す人たちへの彼のアドバイスが印象的でした。
『もしかすると、ダッソー・システムズで働いている私がこんな事を言うと不思議に思うかもしれませんね。けれど、声を大にしてお勧めしたいのが、ぜひ若い内にアナログ式のスケッチ技術を習得してほしいという事です。若いうちにしかできない事ですから。』
それが、彼の転職に役立ち、今の仕事をしているのかもしれませんね。